気になって書き残しておいたが、自分だけに納めておくのは勿体無いのでアップすることにする
ひとつは丸山眞男氏の著作から
近代生活の専門的分化とは機械化は人間をますます精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。簡単にその重要な契機を例示しますと、まず技術的専門家に特有なニヒリズムがあげられます。おおよそ特殊分野のエキスパートに通有の心理として、自分の技術なり仕事なりを使ってくれさえすれば、それを使う政治的社会的な主体が何かということについては全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする。毎日仕事に謀殺されるということそれ自体に生きる張りを感じる。これは単に自然科学の技術者に限らず、官庁とか大会社のような膨大な機構のなかで1つのデスクを持っている事務のエキスパートにも多分に見られる精神的傾向で、これが結果的にはいかなる悪しき社会的役割にも技術を役立て、いかなる反動的権力にも奉仕するということになりやすい。
この考えと少し似ているかもしれないと思うのがマックス・ウェーバーの以下の文章(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神から?)
文化発展の最後に現れる「未人たち」に対しては次の言葉が真理になるのではないだろうか「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なる者ものは、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめた、と自惚れるだろう。
再び丸山眞男氏に戻って
現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家でないと分からないから、そういう人に万事お任せするというパッシブな考え方が国民の間に発生しやすい。専門家に対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色の一つだとエーリッヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野まで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させていくのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成立しているものであります。アリストテレスが「政治学」の中で、「家の住心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくその家の住人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べる人です。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいと言えば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い方は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。
ぼーっと生きてんじゃねえよ!
と自ら叱咤していかないと(そして何か行動を起こさないと)危ない時代なのかもしれない