パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「自由からの逃走」を思い浮かべてしまった

2020年01月31日 18時41分02秒 | あれこれ考えること

シロノワールで有名な喫茶店で週刊誌を見た
その特集のページの写真にこんなのがあった

東京オリンピックのマラソンで銅メダルを手にし、次回のオリンピックも期待されたがために
自ら命を失うことになった円谷幸吉さんの手紙の中の言葉だ
真面目で一途で責任感を一人で抱え込んでしまって
その行為に至った方のこの文章にみられる「自由のしんどさ」は
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を思い起こさせる

自由は無条件に良きものとするのは、少しばかりお気楽すぎる
全て自分の思うようになるということは、全て自分が責任を負うことに等しい
果たして人はそんな自由を欲しているのだろうか
こうした自由を実は欲していないのではないか、、
これを連想させる(究極的に)自分自身に向き合わないシーンが日本のドラマには多い

スポ根的なドラマでは必ずと言っていいほど師に当たる人物が登場する
そしてその師の助言は絶対的な価値を持ち、それに従うことでスキルアップする
師の伝えるノルマは厳しいかもしれないが、それは肉体的・忍耐の問題だ
でも答えのない問題を思いつき、自分で答えを見つけ出さなければならないとしたら
精神的なストレスは半端なものではない

言い換えると、一旦指示されたらそれをしんどくてもするだけでいい場合と
何をしても良いとされて自分で効果があるかどうかわからないまま行うとか
自分の判断根拠となるものを自分で見つけなければならない苦痛
それが自由というものとしたら、、、

禅とか哲学の世界は究極的には自分自身の対話であるとしたら
そんな面倒でしんどいものよりも、現世的には他人が具体的な指示してくれることに
従ったほうが楽と考えるのは無理からぬ事だ

話は変わって、官僚(公務員・職員)さんの本分は、法を守り全体の利益のために
(多分)自らの良心に従って行動することだろう
でもこの自分の考えに従ってを突き詰めて考えるのは面倒くさいし
その答えがあっているかあっていないかを自分で決めるのはとても難しいし
あっている根拠もない
そうした時は指示に従うほうがはるかに楽だ
まして、そしてそれを正当化するための法的根拠があればなおさらのことだ
でも折りに触れ、自分が官僚さんとか公務員(職員)の方々に期待してしまうのは
人としても感性をもった存在としての職業人

それは職業人の前に独自の判断力をもった個人であるということ
つまりは個の確立
だが、それ期待するのはロマンティスト、夢想家なんだろうな、きっと

人はパンのみにて生きるにあらず、、
と言われても、
人はパンがなければ生きられない、、、のが現実
それでもついつい期待してしまう、、個人としての判断力をもった人たちの存在を

コメント
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