「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ」
春の七草が言えるようになってから時間が経っている
しかし情けないことに実際に生えている草を見て
どれがそれに当たるか判定することできない
土方歳三の豊玉発句集の中に
「春の草五色までは覚えけり」
があるが、自分は最後まで言えるので少しばかり自慢
1月7日 朝に七草粥をいただいた
正月に胃袋が疲れるほど食べていないが
最近はこうした軽いものが好ましくなってきている
昔からのものは何か理由があることらしいので
あれこれ考えずに従ったほうが良いのかもしれない
ところで、土方歳三を扱った司馬遼太郎の「燃えよ剣」が映画化されて
今年の5月に公開されるらしい
一時期、土方歳三はマイブームだった
多くのファンが行うように彼の縁の地を回った(日野、会津若松、函館など)
それだけでなく、一応一次資料的な島田魁日記とか永倉新八の書いたもの
他にもいろんな作家さんの作品を読んだ
キリスト教の新約聖書にはマタイ、ヨハネ、マルコ、ルカの4つがあるが
同じ内容(多少違う?)なのに何故4つもあるのだろうと思ったことがあるが
土方歳三に関してもいろんな作家さんが自分のイメージする彼を表現しているのを見ると
人は自分の思い描く人物像を表現したい気持ちを持つのだろう
当然のことながら自分にも土方歳三像がある
しかし、それは司馬遼太郎が描いたイメージとを少し違う
自分のイメージする土方歳三は豊玉発句集を書いた人物としての土方歳三で
鬼の副長とか最後の武士とか、そういったものではない
豊玉発句集の他の歌でイメージされる素朴な考え方を持つ人物
一方彼は合理的な考え方が好きで、規律とか組織づくりはそれによっていた
(ある時、幕府の医者の松本良順に不衛生な施設を批判されると
あっという間にそれを訂正したエピソードがある)
実践的な経験を踏むに連れて、ものごとは理屈だけで動かないことを自覚し
最後は人を動かすのは「意気とか気持ち」で本来彼が持っていた人間性に
根ざす部分に還っていくが、この経過の部分が自分のイメージする土方歳三で
最後の武士的な肩肘を張りっぱなしの男とは少し違う
(映画の主演は岡田准一らしいが、一本気のイメージで終始しそうで心配)
まだ見ぬ先から心配してもしょうがないが、できればナイーブな土方歳三像が見られるといいのだが
ところで豊玉発句集は他に
おもしろき 夜着の列や 今朝の雪
朝茶飲みて そちこちすれば 霞なり
春の夜は 難しからぬ 噺かな
春雨や 客を帰して 客に行き
うぐいすや はたきの音も つい止める
など素朴なものがある
このような俳句を詠む人物があのようなことをしたというのは
随分無理をしたのだろうと思ってしまう