パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

何故、理不尽なものに従ってしまうのだろう

2020年03月01日 09時26分16秒 | あれこれ考えること

国会や市議会を見ると、答える立場の人が苦しい言い訳をしている場面が多い
可能性としての理屈はそうであっても、現実世界では起こりえないことが
通用するかのように進められていく(言葉の上だけで)

こうした場合、この官僚の行いに対し批判的なひとからは
国の場合は内閣が人事権を持ったために官僚は支配されている
(市の場合は首長に人事権があるので首長に支配される)
との解説が当たり前のようにされる
官僚(職員)自身の将来・出世に関することを握られては
官僚(職員)は従うしかないというのだ

でも、本当にそれだけなんだろうか?
官僚(職員)という人たちを十把一絡げにして、出世欲の塊と判断するのは
少し一面的過ぎないか!
と最近思えてきた
それはあるとしても、もっと別の理由もあるのではないのか
そんな気がしてならない

だがそれを想像するのが難しい
自分が官僚の立場、職員の立場になれば実感としてわかるかもしれない
多分、これは実感としてしか理解し得ない問題のように思える

人は判断するのを嫌がる傾向があるのではないか
判断をすれば必然的に責任を負うことになる
そんな責任を負いたくない
自分は言われたことをしているだけ、、、
というほうが心理的に楽そうなことは想像できる

ルールに縛られている人たち(官僚・職員)は簡単にルールを破る人物に対して
反発心を覚えながら、自分たちのできないことをやすやすと行ってしまうことに
少しばかり憧れを持ってしまわないか
ルールを平気で破る無鉄砲さ、度胸、強引さ
これらは実社会で経営をしている方々に少なからず見られるところもある
全員が全員とは言わないが、、危ういバランスの上で生き抜いている可能性はある

ピケティは経済的な成功者は、努力した人、運がいい人の他に
塀の上を歩いた人と述べている
世の中の法は、結局は完全なことは不可能なので、
その抜け道を良心の呵責なく行える逞しい人物は生命力に富んだ
魅力的な人物と思えるかもしれない

官僚(職員)に対し、ハンナ・アーレントが思考停止による凡庸な悪とした事柄
フロムが「自由からの」逃走として扱った個人の問題は
出世主義だけでは片付けられない問題と思う

でも観念的すぎるから説得力は無いかな、、、



コメント
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