パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

観客、聴衆、傍聴者

2020年03月06日 08時41分13秒 | あれこれ考えること

コロナウィルスの対策のためにプロ野球オープン戦とか
大相撲では無観客試合の開催が実施、予定されている
直感的に観客がいないと選手、力士はやりにくいだろうと思うが
観客があるとなしでどの様に違うか実感したことがある

それはもう昔の話になりつつある小学生のサッカーのコーチをしていた頃の話
彼は気まぐれでそんなに練習に熱心に取り組むタイプではなかったし
子どもたちの大好きなゲームでも積極的にボールを触りに行く子でもなかった
ところがある日のゲーム、いつもと違って不思議と走り回っている
積極的にゲームに参加し戦う姿勢を見せている
「お、今日は調子良いじゃん」
最初はそんなふうに思ったのだが、よく考えてみると思い当たることがあった

その日は彼のお母さん(お父さん?)が見に来ていたのだ
コートの周りで親御さんは声を上げる
「そうか、それでか」
子どもは親にいいところを見せようとしたのか、それとも見ていてくれている安心感で
いつもより頑張れたのか、それはわからい
でもハッキリしたのは、こういう事実があるということ
こうした事実に気がつくとこれはその後いろんな場面で見られた
サッカーでホームとアウェイで戦いぶりが変わるのは、こうしたことから当然のことと思われる
身内(サポーター)が見ている中ではいつもより気分的に疲れずに走ることができる
イケイケとなるのは観客があってこそだ

音楽(オペラ)も無観客でネットで上映されるようだ
楽しみにしていたびわ湖ホールの「神々の黄昏」は中止なったが
本来予定されたいた時刻にライブビューが行われるとのこと
こうした音楽の場面での聴衆の有り無しはどの様に違うか、、
フルトヴェングラーは観客のいない、レスポンスの実感できない時間を好ましく
思わなかったようだが、現実に何が違うかといえば、それは静寂の密度ではないだろうか
大音響で盛り上がる場面よりも音が徐々に小さくなって聴こえるか聴こえないかになっていく場面
聴衆は息をするのも忘れたかのように耳をそばだてる
そして休止となる、その余韻、、
その時訪れる静寂は単なる物理的な時間ではない
もっと濃密な、静寂も音楽の一部と思われるような瞬間だ
聴衆は息をこらして次の音を待つ
音への期待は熱気を帯びるものとなる
音楽が始まるとやっと息をすることを思い出したように咳をするひとが現れる
こうした瞬間は観客がいるライブならではの感覚だ
そしてこうした瞬間の記憶が演奏の印象とか記憶となる

演奏会はこのように観客がいたほうが演奏家はやりやすいと思われるが
その例外も時にはあるようだ
カラヤンが指揮していた演奏会にベームだったかフルトヴェングラーだったか
いずれにしても同業者が聴きに来ていたことがあった時
カラヤンはひどく神経質になったとのエピソードがある
(もしかしたらカラヤンではなく別の指揮者だったかもしれない)
同業者の耳は素人の耳と違うし音楽への理解力も違う
演奏家は同業者に彼自身の内面を覗き見られ
まるで裸を見られるような気がしていたのかもしれない

このように観客とか聴衆は大きな存在だが、同様に大きな意味を持ちそうなのが市議会の傍聴だ
傍聴者がいるといないでは議員に与えるプレッシャーが違う
少なくとも普通の人間なら良いところを見せようと思わなくとも
悪いところは見せたくないと思う
言葉遣い、筋道の通った話ができているか、、そうしたことが白日のもとにさらされる
傍聴者が身内とかが傍聴に来ている場合はあまり緊張はしないかもしれないが
全然知らない人がメモを取ってしっかり聞いていたり、
少しばかり批評できるだけの情報を持っている人間が傍聴に来ているとすると
議員は普段のキャラクターとは違う面を見せなくてはならなくなる
そして普段は意識しない市民の声や意向も考慮に入れざるを得なくなる

市議会の傍聴はなれないとつまらないのは事実だ
しかし、慣れるまでになるとこうした傍聴者の存在は議員の勝手な判断の
暴走をストップさせる機能を持つのではないか、、とも思えてしまう

ということで、観客、聴衆、傍聴者の存在は想像以上に大きいということ
できることなら最後の市議会傍聴者が多くなれば
何かが変わってくると気もする(期待も込めて)

コメント (2)
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