パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

市議会で公聴会は開けないものか(情報の不平等が気になる)

2020年03月03日 20時09分06秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

少し面倒くさい新城市の例の話題

国会をネットで見てたら予算委員会に公聴会というのがあり、興味を持った
公聴会とはウキペディアによると
国会法51条1項において、委員会は、一般的関心及び目的を有する重要な案件について、
公聴会を開き、真に利害関係を有する者又は学識経験者等から意見を聴くことができると定め、
2項において総予算及び重要な歳入法案においては、開催義務があることを規定している。
加えて、衆議院憲法審査会規程及び参議院憲法審査会規程により、
衆議院憲法審査会・参議院憲法審査委員会において憲法改正原案についても公聴会の開催が義務づけられている。

とある

たまたま見た2月21日の衆議院予算委員会で行われた公聴会
印象に残ったのは、情報公開クリアリングハウス理事長の三木由希子氏と弁護士の新里宏二氏
前者は情報公開請求を頻繁に行っている方で、文書管理の法について実践のうえで
法的にもかなり詳しい方で、20分の所要時間はよどみなく、しかも話がダブることもなく
理路整然と話されてて世の中には頭のいい人がいるものだと感じた次第
後者の弁護士はパチンコ等のギャンブルで生活が成り立たなくなった人を多く見ている方で
両者とも野党側から要請されて出席したものと思われる

予想されるように三木氏は、海苔弁で出たり、速やかに破棄されたり、
改ざんされたりの問題が多い現政府の公文書についての第三者からの意見
新里氏はIR(統合型リゾート)に関してギャンブル依存の実態とその弊害について現役の弁護士からの意見

ここで地元の話とは関係なさそうな国会のことを取り上げたのには理由がある
それはいわゆる第三者という立場の人が、議決権をもつ議員を前に、客観的な(あるいは野党よりの?)
話をしたということが、市議会議員の議決行為に対して参考になりそうと思えたことだ

現在個人的に気になっていることといえば高速バス「山の湊号」のこと
先月行政から市議会議員にいろんな資料が渡されて、その中には専門家(第三者?)の意見もあったようだ
ところが、それらは基本的には行政(の理屈)に都合の良い話だ
沢山のページの資料を渡されて、それを読んで議員が是か非かを判断することにしてほしいというものだが
その資料だけで判断することが果たして良いことなのだろうか  と疑問が浮かぶ
なぜならそこにあるアンケートは利用者に対して行われたもので、利用していないひとの声は反映されていない

議員みんながその資料だけを当てにせず、個人レベルで市民の声を聞く行動をしていれば良いのだが
残念ながらそれだけフットワークの軽い人物はそれほど見当たらない(と思う)
ならば、国会のような反対立場のひと(専門家・第三者)の「公聴会」を開けないものか、、
と思う次第だ

現在、議員間に高速バスの評価の違いがあるのも事実
存続を求める専門家、第三者の声(?)はとりあえず提出された(行政側から)
ところが別の認識とか意見をもつ専門家(第三者)もいるはずなので
その人たちの声を、とりあえず議員はそれも聞く行為(公聴会)
それがシステム的に必要なのではないかと思えてならない
(でないと情報の不平等性が生じてしまわないか)

現在は行政に質疑(質問)して、答えを待つだけで議決判断する様になっていて
議決前の賛成討論は、議員個人の言葉ではなく行政の言い分を
そのまま繰り返し話していることが多い(そう感じてしまうことが多い)

実際のところ、質疑とか質問の場で議員と行政の方とバトルを繰り広げると
その問題に携わっている時間の長さの違いが、そのまま勝負に出ることが多い
結果的に理屈では(あるいは口頭では)議員はなかなか行政を上回ることは難しい
しかし、議員には「常識」とか「市民の声」という強力な価値判断のバックボーンを
もてば怖いものは無い、、と話した方がいたし、そのとおりだと思う(思いたい)

ということで、少しばかり小難しい話になったが、
要は議員さんには「情報の不平等」に留意して欲しいということ

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「類は友を呼ぶ」傾向

2020年03月03日 09時36分16秒 | あれこれ考えること

結局は少人数の間でいろんなことが決められていくとしているのは
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」やラ・ボエシの「自発的隷従論」
に記されているが、現在の我が国の有り様を見れば実感として理解できる

とても難解で読むのに苦労するフーコーの「監獄の誕生」の購入時期と
同時期に図書館で借りてきたのが、生々しいこの本

フーコーの観念的あるいは日本人が知らない西洋の歴史のエピソードが多い
のと違って、この本は具体的な名前があがってわかりやすい
ただ多くの名前があがってくるので最近の記憶が怪しくなりつつある頭には
少しつらい面もある

先だって官僚や職員は、「平気でルールを破る人物には弱い」とかなり勝手な
仮定を設けて、出世主義だけでは理解できないとしたが、どうもそれだけでは
現状を把握できないのも事実で、もう一つ全く別の視点が必要とちょいと思いついた
それは諺にもある「類は友を呼ぶ」と傾向のこと

出世主義もあるかも知れないが、結果的にメンタル面で似たような傾向を持つ
人物たちが集まり、表向きには多数決主義(民主的な方法?)で強引にものごとを
進めていくのが(我が国の)現在の状況で、これは一歩間違うとナチスが合法的に
ドイツ国民を支配したことに通じてしまう

「類は友を呼ぶ」傾向は、他の動物と比較して何ら強力な武器を持たない人間が
高度に発展した脳の力を用いて他人と協力することで、生き抜いていける方法を
身につけたのだが、これが理性で行われるのか直感的に行われるのかが問題で
一見理性で行われるように見えても実際は直感で行われているのではないか?
というのが思いついたこと

現在のお偉いさんたちは、その立場が似たような印象を与える人物になるのか
それと元々持っているものが似通っているのか、、は不明だが
最初から肌合いが違う人物は近くに置きたがらないのは人の常
つまりは、何となく自分の感覚に近い、、と思えるような人物を
後付の理屈をつけて周りを固める、、というのが現実では無いだろうか

以前のお友達内閣、とか友達に優しいとか言われる事柄は、これで説明がつきそう

とはいえ、この本に書かれている黒川高等検察検事長は
現在国会でも定年の解釈で問題とされている人物で
明らかに肌があうといった程度の問題ではなく、現実に後々のことまで影響する人物
だからこそ、この本が書かれた時点においても問題視されていた
(ところが一般市民の殆どはそんなことは知らない)

冒頭の「少人数の間で決められていく」のは国に限らず地方自治体でも似たようなもの
みんなで決めていくのは手間ばかりかかって現実的ではないとしても、
その役割を担う人たちが、立派な判断力を持った(人の痛みや生活実態を理解した)
人物かどうかは大きな問題で、こういう人(首長や議員)たちが
上にいるいないは、運不運だけで済ませてしまうのは危険過ぎる

でも、その人達を選ぶ庶民に選ぶ能力が果たしてあるか、、
こうなると堂々巡りしそうだが
結局は人は色々痛い目をしながら試行錯誤で社会的システムを作っていくのだろう
痛い目などはしないほうが良いに決まっているが
人は忘れるという特技も持っているので、どうしても再び痛い目を味わうことになる

国も市も、痛い目を味わう事にならないように、、、と切に思う

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