パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

少数者の支配(2つの書物から)

2020年04月05日 16時19分52秒 | あれこれ考えること

前回の書物からの抜き出しの続き

結局は少数者による支配が行われる実態を「自発的隷従論」では
このように記述されている

圧制者をその地位にとどめているのは、つねに4人か5人の者である。
彼のために国全体を隷従の状態に留め置いているのは、ほんの4人か5人の仕業であるということだ。
ことは次の様に進展してきた。まず、5.6人の物が圧制者の信頼を得る。
次に自ら彼に近づくか、彼に誘われて、共謀して残虐な行いにふけり、逸楽の場に同伴し、淫行のお膳立てをする。
また略奪したお宝のおこぼれにあずかる。
この6人は、主君をうまくもり立てて、一味全体のために、主君がいっそう悪者になるようにしむける。
その際彼は、自らの悪行のみならず、手下どもの悪行によって悪者となるのだ。
この6人は、みずからのもとで甘い汁をすう600人を従え、そしてこの600人は6000人を登用し、所領の統治や租税の管理に当たらせる。
こうしてこの6000人を欲深く残虐なままに任せ、必要とあらばそのような資質を発揮させ、更なる悪事を行わせるのだ。
もっともこの6000人は、その悪行の際にも、上司の庇護のもとでしか生きながらえることができず、
上司の命による以外は、法や罰を逃れることができないのだが。

これを現在進行中の何かを重ね合わせて想像してみると、少しばかり心配になるのは杞憂だろうか

結局は少数者の支配についてはハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(3)でも
彼女独特の難しい言い回しで表現されている

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が
後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。

その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、
全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、
それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、
その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。

ところが運動が実証してみせたのは、
たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること
つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、
あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。

全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、
大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、
たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、
たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。
全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、
それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢している
ことで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存している
のと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

現実を直視する人は、同じような結論に至るのだろうか
ところで、「自発的隷従論」に戻ると、この中にはマキャベリや韓非子が言いそうなことが列挙されている

圧制者の作術

(1)   遊戯(パンとサーカス)
(2)   饗応(重要ポストの人間との飲食・接待)
(3)   称号(ポスト)
(4)   自己演出(わざと遅れて登場するなど権威付け)
(5)   宗教心の利用

人間はどの時代もどの地域でも変わらないから
これを現代の日本の社会に当てはめることも当然できるし
大半の人間は自然とそのような連想をしてしまうだろう
(そして想像した結果はどう感じるか?)

「自発的隷従論」は、こんなことも残している

トルコの大王は、書物や学識というものが、ほかのいかなるものにもまして、
人間に、自己を知り圧政を憎む能力と力を与えることを熟知している。

だから彼は自分の領土に識者をほとんど置かず、そんな連中も求めたりもしないのだ。

我々は、先人たちがせっかく残してくれたこれらの書物の言わんとすることを
心に刻んでおかないと、またもや失敗を繰り返すことになってしまうだろう

 

 

 

コメント
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