災害ユートピアと火事場泥棒
前者は非常時にみんな力を合わせ助け合って乗り切っていこうとする
心がほっこりする話
後者は非常時のどさくさに紛れて一儲けしてやろうとする
ちょいといただけない話
不思議なことに、これは同時進行している
だが不思議なのではなく、(確率的に)人はそうしたものだ、、
と思うほうが無理はないのかもしれない
西欧のキリスト教の文化の中では、神の創造した世界が秩序あるものならば
多くの思想家の頭を悩ました
「何故、悪が存在するのか?」との問に繋がり
その答えとして、人はそもそも神の意図を把握しえない、、とか
不完全の状態は何かを強いるキッカケとして存在するとか(違ったかな?)
とにかく、答えのないような問に必死に理屈の体系化を図ろうとした
日本人は多分思考に対してそこまでの掘り下げや、それに伴う忍耐力はないものと思われる
それよりは、身の回りにある自然をそのまま受け入れ、そこから生じる感覚的な印象
(もののあわれとか侘び寂びとか、全面的な肯定とか、諦めとか)の方が優先しがちのようだ
いずれにしても、全く反対のような行為が同時期に人間によって行われている
そこで頭に浮かんだのが、人間が利己的に活動する(火事場泥棒的な)のは、
哲学的・社会学的にモラルの欠如云々の問題ではなく
生物学的に生き延びる可能性を確保していくための手段(ウィルスの突然変異のような)
に過ぎないかもしれないとの考え
でも、これはきっと悪しき科学的な考え方なんだろう(?)
「サピエンス全史」を通して読んでみると、人は生き延びるために試行錯誤をしている
そこにはモラルの自然発生的な誕生もある(自分の理解した範囲では)
ある部分には不都合を生じても、全体的にはそうある方が良い、、
と社会のルール(正義・道徳・倫理)が生まれる
それが生き延びるコツだった、、、と思いたのだが、
この理解の仕方で良いのかどうかは自信がない
こう考えると、いやこのような考え方をしがちな自分はニーチェについては
どうしても否定的にならざるを得ない
ややこしい話は一旦横において、今も疑問で仕方ないのは
災害ユートピアと火事場泥棒の共存の他に
何故人はフェイクニュースを流してしまうのか
そして何故安易にそれを信じてしまうのか
誰かが悪い!といったシンプルな決めつけは何故多くの人の気持を掴んでしまうのか
(週刊誌広告の人を批判するニュースに何故ひかれてしまうのか?)
ひとはそもそも客観的に情報に接することはできるのか
何故、共感・同情する人がいる半面無関心な人がいるのか、、
自分で判断する自由は、本当に人の望んだ自由か(自由からの逃走、カラマーゾフの兄弟)
孤独と孤立はどう違うか
数人の中にいる自分と多くの中にいる自分は同じか(同じ判断をするか?)
とまあ、答えのなさそうな疑問が気になる
実生活には一向に役に立たないこうした問だが
何かを考えたり感じたりするキッカケにはなっているので
ボケ防止にはなっているかも
ところで最近読んだ本(部分的再読を含めて)は、
「世論」リップマン、「群集心理」ギュスターブ・ル・ボン
「自発的隷従論」、「責任と判断」ハンナ・アーレント
「法学の基礎」団籐重光、「処罰社会」「監獄の誕生」ミシェル・フーコーなど
これらは正直なところ自分の理解力を越えた内容だが、こうして何かを感じる癖が身についているので
身体の何処かに居場所を確保しているのかもしれない(と思いたい)