少し真面目な話
国会中継を見たりすると、国会は議論や討論の場ではなく裁判の場のような印象をもつ
そこは究極の妥協案を模索するための場というよりは、野党・与党がそれぞれの主張する
ことに終始する
見ていてイライラするのは、ファクトに基づいてその場を進めて行く前提でありながら
そのファクト・あるいは資料が結局は数の力で公にされない状況になっていること
(野党が委員長に重要な資料の提出を求めても、委員長は後刻理事会で協議すると答え
それは与党理事の多数の反対で実現されないのが常となっている)
裁判なら(多分)仕切り役の裁判長が目前のテーマについて論点を整理し、その進行に必要な
資料(証拠)を双方に求めて、お互いに納得行くステップを踏む
ところが、国会の場で起きていることは、自らの正当性を主張する準備書面は一向に提出せず
口頭で関係者に聞いたことを、その関係者が嘘を言っているかどうかもわからないのに
一方的にそれを信じて、何を言われてもその先には行かせない作戦を取る
国会の場は裁判の場ではないが、裁判官が見ていたらどんな風に感じるのだろう
などと常々思っていたら、YoutubeチャンネルのテンミニッツTVというところで
「民主主義は今危機に瀕している」とのタイトルで講義が行われていた
これは偶然目にしたが、このなかで最近の国会は「裁判の場になっている」
と自分が感じていたことを、拍子抜けするくらい自明のこととして扱われていた
その講義によると、本来議論・討論の場であった国会は今や「党派性」が
幅を利かすことになり、党の利益、イデオロギーをそれぞれが主張する場で
最初から最後まで考えを変えることはなくなっている
これは「裁判の場」の進め方と同じだと述べている
なんだ、自分の感じていたことは間違いじゃなかったんだ、、
と納得する反面、(結局は少数者の支配に繋がりそうな)
最近の党派主流の政治の流れは、、ちょいと不安になる
選挙に一番真剣になれる人たちは、その結果が生活に直結する人たちだ
選挙の結果で自分たちの分野にお金が流れてくるとなれば、真剣にならざるを得ない
自分たちの組織(?)ために投票以外にもロビー活動も行う
(それはそれで地道な活動だが)
ところが、自分の生活に直結していると実感のない無党派層とか無関心層の一部は
想像力を駆使することなく他人任せの方法を取ってしまう
本来はトランプさんのような人物が大統領にならないためのアメリカの予備選挙システムが
結果的には法に則ってトランプさんを大統領にしてしまったという事実
法とかシステムというものは、いつの時代も完璧なものはないと実感する
だからこそ「動的な法」という概念(法は解釈主義に終止するのではなくその都度変化すべき)
という考え方も生まれてくるのだろう
ところで、アメリカに限らずポピュリズムに支配される傾向は、
不安定な社会になっている現在はますますその勢いを加速しているかのよう
海外から見れば日本も、、ポピュリズム国家、、との判定を受けているかもしれない