これだけ朝から晩まで新型コロナウィルスの報道が多いと
いくらのんびり屋の自分でも、この件に関しては少なからず
何らかの意見を持つようになるし、気分的にも少し落ち組む
といっても具体的に出された方針への賛意とか反対に過ぎず
それをツイッターにつぶやく程度なのだが、少し考えてみると
大半の人は何らかの考えを表に出すのはごく自然のことと思われる
ところが、影響力とか発信力があるにもかかわらず
普段と変わりなく自分の身の回りのことだけを情報発信している人たちがいる
こんな事態でも普段の生活は大事なことはわかる
また非日常的な世界(芸術とか芸能)の重要性は
こうしたときでも変わることがないだろうし
今こそ注目しなければならないかもしれない
だが、それ故にこの問題から目をそむけているとしたら
それは少し不自然だ
ここで影響力とか発信力があるというのは、芸能人
あるいはその周辺の人物のことで、彼らの中には
だんまりを決めている人がいる
そして日本の社会は、下手に意見を言わないほうが
仕事に悪影響がない、、と考えられている節がある
でもそれは不自然だ
むしろ自分はこう考える!と考えを表に出したほうが
人間らしい行いのように思える
話は変わって、指揮者フルトヴェングラーが世界大戦時にドイツに残り
芸術至上主義を貫いていたのを見て、トーマス・マンなどは
現実認識の無さ、一種の社会的な無責任さを批判している
だがフルトヴェングラーは戦い続けていた
ユダヤ人のベルリン・フィルの奏者を守り、芸術至上主義(理想家)を
全うするために、ユダヤ人作曲家の曲をプログラムにあげて
ヒトラーに対しても彼なりに抵抗はしていた
それがあったから、戦後の裁判でも彼は戦犯にはならなかったのだが
真面目な人たちのフルトヴェングラーの選択(ドイツに残り指揮したこと)
は間違いだったと言いたい気持ちもわかる
ただ戦時中のフルトヴェングラーの精神がどんなであったかを想像できる音楽がある
出てくる音はきっと精神状態を反映しているのだろうと思う
戦時中の録音でベートーヴェンのコリオラン序曲を聴いたときのこと
冒頭の和音で、聴いてるだけの自分の精神がいきなり緊張感に襲われた
その音の痛切なこと、ものすごい迫力で迫ってくる
結局その曲はその後どんな演奏だったか詳しく覚えていないが
冒頭の痛切感だけは今でも強烈に残っており、
辛いので、もう二度と聴きたくない、、と思えるくらいと思えるくらいだった
他人から見れば社会的な現実認識ができていないと思われても
毎日の生活の中で人の心は傷ついていく、それが普通の人だ
そんな中、「下手なことを言わないほうが仕事に影響が出ない」
と判断する人たちは、果たして人としての生き方をしてるのだろうか
もちろんその立場に立ってみないとわからないことだ
しかし、あまり微妙なことは言わないほうが良い、、とする社会は
どこか間違っている気がしてならない
ものごとは言うべき時に言わないと
あとで取り返しのつかない状況になってしまう
何よりも自然発生的に自分のうちに湧き上がってきた思いを抑えておくというのは
もうひとりの自分との折り合いをつけていられないような気がして
それも苦痛だと思ってしまうのだが、、、
※自分がツイッターでフォローしている著名な人が、この段階になっても
少しも政治的な内容のツイートをしていないので気になって
何故なんだろう
それは良いことか、、、と考えてみた