新型コロナウィルスについては、今までに経験したことのない状況を作り出している
速やかに、かつ現実的に行うべきことは行ったほうが良いのは当たり前のこと
こんな場合、与野党関係なくドンドンと前に進めていってほしいものだが
どういうわけか、すんなりとはいかない
野党も様々な現実的な提案をする
ところが、見ていると野党からの提案は前に進まない
それは提案内容の問題ではなく、野党から提案されている
という事実に起因するように思えてしまう
舞台を我々の市に移すと、市議会での討論は
討論(議論)をしたことで結論(個人の考え)が変わることはあるのだろうか?
残念ながらそれは無いと思えて仕方ない
直近では一部のひとから税金の垂れ流しのように思われている高速バスについて
その来期以降の継続について、全員協議会なり予算・決算委員会で議論がなされた
明らかに事業継続に慎重なのは4人、しっかり検討したほうが良いとするのが2人
18人の議員のうち議長は議決に加われないが、残りの11人は事業継続に肯定的だ
ところが、時間をかけて一見慎重に討論されたような形になってはいるが
議員間で討論をしたことによって自分の考えを変えた議員がいただろうか?
否定的な議員はその駄目な理由を事細かく調べて、熱弁をした
継続に賛成の議員の一部は抽象的な未来志向の理屈でその意義を主張した
ところが何も言葉を発しない議員は、外から見ると、既に何があろうとも
結論は決めている、、と思えてならなかった
そもそも人は討論・議論によって自分の考えを変えるだろうか(それは可能なのだろうか?)
ニュートラルにものごとを捉えて、理知的に判断するのは思いの外難しい
というより、不可能なのではないか、、とさえ思えてしまう
「ファスト&ロー」の本にあった様に、人は第一感とか最初に思いついたこと・考えたことを
変更するのは難しいのではないか
その一番最初の考えが、自分で思いついたものか、誰かに勧められたためか
それとも、こちらのほうが数が多そうと感じたためか、、、
何れにせよ、実感としては議論・討論の前に結論は出ていた様に思えてしまう
だからこそ、議論以上に多数派工作が必要となるのだろうが
これは我々の市で見られたことだが、実はどこでも見られることなのではないか
ネット上では「完全論破」なる言葉が一部の人達の間でよく使われる
民主主義の目指すものは究極の折衷案のような印象を持っている者にとっては
この相手をやっつけるイメージの戦いはあまり好ましく思えない
議論はこちらの言い分を言い、相手の言い分も聞いて、それぞれの良いところどりを
すれば良いと思うのだが(どうせどうやっても完全なものはできない)
自分の言い分のみを正しいとする(論破する)のは、なんだか大人気ないような気がしている
ということで、時間をかけてもかけなくても現実は最初から議決の結論は出ている
ということを、またもや実感したわけだが、黙っていた議員には議決の理由を
一人ひとり聞いてみたいものだ
話は変わって、市長選挙の際に公開討論会の条例化を検討している市だが
前回の市長選の公開討論会でも会場で話を聞いて
自分の考えを変えた人がいただろうか?
と振り返ってみると、現実的なところ各陣営の応援団が会場にきており
何があっても考え方は変えない、、、というパターンが多そうだった
自分の考え方を変えるというのは想像以上に勇気のいることで
なかなかできない、、というのが現実のように思われる