ある本「それを、真の名で呼ぶならば」(レベッカ・ソルニエット)からの抜き出し
フーコーからの引用の部分があって、そこにあるのが
フーコーは「人は自分が何をやっているのか知っている。多くの場合は自分がなぜやったかも知っている。
知らないのは、自分がやったことの影響だ」と述べた。
あなたは自分にできることやる。あなたがやったことは、これから何世代にもわたって、
あなたの想像を超えたことを成し遂げるかもしれない。あなたは種を植え、その種から木が育つ。
その木は、実をつけ、木陰をつくり、鳥たちのすみかになり、さらに多くの種を生み出し、森になり、
ゆりかごや家をつくる木材になるだろうか?あなたにそれを知るすべはない。
木は、あなたよりもっと長生きするから。同じように、真実あるいは正しさについての新しい発想を
受け入れることがもたらす変化も、時には世界を作り変えるかもしれない、あなたは自分にできることをする、
自分のベストを尽くす。それがもたらす影響は、もはやあなたの責任ではない。
この文章に、どれだけ勇気づけられることだろう
市井の人間が良かれと思った事を行う
壮大な意図や計画があるわけでもなく、ただ気がついたちょっとしたことを行う
そのちょっとしたことは、誰かの心に残って、その人は何かを行う
そしてそれは、知らないうちに世間の常識的な考えや行動になる
こうした考えの有名な例に「ハチドリの一滴」がある
でも大半はそんな夢みたいなことは起きない
ただ忘れられるエピソードで終わる
それでも何故か、何かをしようとする人はいくらかの確率で世の中に現れる
その人物は自分の残す未来はわからない
わからないからできることだけを行う
大衆と一括にされる存在の中には、こうした考えを持つ人がいる
自分の知っている中にもそういう人はいる
そういう人を知っているということが、どれだけ世の中を肯定的に捉えることができるか
災害ユートピアとか、渡る世間に鬼はなし!を実感する人と
渡る世間は鬼ばかり!と実感するのとはどちらが幸せだろう
どうせなら最後まで前者でいたい