パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

四捨五入(気持ちの変化)

2021年05月01日 09時43分28秒 | 徒然なるままに

日記風の極めて個人的な話

早死したモーツァルトは勿論のこと、ベートーヴェンやフルトヴェングラーの生きていた年齢を超えてしまっている
父の一生の時間も、だいぶ前に済ませてしまっている
彼ら(父以外の)残したものと今の自分を比べると、つくづく成長していないと感じざるを得ない
何かを残すとか創作するということは、ハンナ・アーレント流に言えば労働でも仕事でもなく活動をしていることになりそうだが
それほどの才能や実行力のない普通のおっさんは、ただただ時間の経過を感じているに過ぎないのかもしれない

幸か不幸か自分には中学3年から書いていた日記がある(今はブログという形で続けている)
何かを意図的に残そうとか創作しようとした訳ではない
単に一種の感情のはけ口のようなもので、書くことによって気分転換を図っていたように思う
だがそれを読み返すと、がっかりしてしまう
流石に中学時代のは読み返さないが、もう少しあとの、あるいは最近のこのブログ等を読み返しても
普通のおっさんの精神的な熟成とか高度な知識の獲得などは、ほとんどなされていないことに落ち込みそうになある

以前、四捨五入をしてショックをおぼえた時があった
切り上げると50か!
生きていればやってくるその年令に、もう若くないのだ!と驚きと悲しみと少しばかりの自嘲を覚えたものだ
それでも今思うとまだ余裕があった

四捨五入すると60となるともっと印象は違ってくる
子どもの頃、残酷にもおじいいさんと認識していた人たちに入るからだ
それが更に進み、四捨五入すると70となると、シニア料金でいろんな施設利用が可能になるが
それが素直に喜べない気がしてくる
そして振り返らないようにしていた過去も、心のなかに静かに懐かしさを伴ってやってくる
ヘッセに言わすれば、過去を懐かしむ権利がある、、とでもなるのだろうか

特別な才能とか、存在とか、立場にない、ごく普通の人は、感じることそれを味わい尽くす
それがハンナ・アーレントの活動に該当することになるかもしれない
などと自分自身を慰めたりしている(というか、そう思い込もうとしている)

赤塚不二夫流に言えば「それで良いのだ!」ってとこかな
(でも好奇心はまだまだ健在のような気もする)

 

コメント
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