ワールドカップカタール大会 アジア一次予選のミャンマー戦は
FIFAランキングをそのまま反映して10−0の大差だった
大迫は大当たりの5得点で、テレビ解説者も言ってたが、いい場所に位置取りしていた
いい場所とは、点の取り易い真ん中でゴールに近いところで、
あのメッシですらも遠い場所からのシュートよりはこの位置からのゴールが多い気がする
クリスティアーノ・ロナウドはズドンと中距離のシュートをねじ込んでしまうが
確率的にはいい場所(真ん中・近距離)からの方が良いはずだ
大五郎カットのロナウドもどちらかと言えば、あの体格を生かしてのドカンといったシュートよりは
キーパーを交わして確実にシュートの印象が強い
問題は今回大迫があの位置にいられたのは何故か?という点で
それは選手の個々の力の差がチームの差になって現れたからだと思われる
海外組の日本代表は身体の中に染み込んだヨーロッパ選手のスピードやフィジカルの経験から
アジアのこのレベルではさほどパニックにならず対応できた
そのために大迫は強いチームと戦うときほど左右に流れてチャンスをつくる作業をしなくて済む
つまりは、どんと中央にいれば他の選手がそれなりにお膳立てをしてくれるので
彼はフィニッシャーの役割を果たせば良いことになる
日本ではチームで戦うという言葉がもてはやされ、個が補えないところは数で補う
(確率としての)ことが美化される
岡崎や南野も日本では献身的な守備が評価される
だが、彼らのポジションに要求されるのは結果としての得点だ
いくら献身的に走り回ったとしても点が取れない選手は監督から見ると使いづらい
監督によっては真面目な走り回る選手が好きな人もいるが、勝利が評価対象の監督は
結局は前目のポジションでは点の取れる選手を重要視せざるをえない
走り回らなくても、試合中に消える時間が長くても、ワンチャンスを何故か決めてしまう
そういった選手が頼りになったり、彼にかけようとする気持ちはわかる
走り回った選手が得点をコンスタントに取れるか、それとも職人のようなシュートだけがうまい選手が
(ドイツのボンバーとあだ名されたゲルト・ミューラーは点を取ることは異様に上手かった)
点を取りやすいかは、なかなか難しい問題で、日本人は真面な姿を評価しやすいが
結果にこだわるヨーロッパの方では多少違う気がする
海外で戦っている選手の、そこで得た実感は「個の力のアップが必要」と答える人が多いようだ
チームのために働く犠牲心よりは、結果としての役立つ個の力
そもそも個の力が優れていなけばスタメンに起用されないからもあるが
そこにはチームとして戦うといった責任逃れの安易な言葉は通用しない
だがここからが問題だが、日本人はひたむきには動かないが、肝心なところは結果を出す選手を
受け入れるだろうかという点だ
サッカーのような点の少ないゲームでは、点を取るというそれだけで大変な才能と思われる
それは才能という言葉しか見つからないが、そうした人にありがちなちょっと変わったメンタリティを
日本人は許すことができるのだろうか?
みんなで残業をして一生懸命働いているような一体感よりは
各人がそれぞれの分野のプロとしてこなして行って、手際よく済ませた者は定時に帰る
もしかしたら変わり者と評価されやすいこの手の人を日本社会は受け入れるのだろうか
日本の社会とサッカーを照らし合わせてみると、サッカーのスタイルは国民性を現しているものだと思うが
強くなるためにはサッカーは世界標準にならなけれなならないが
日本社会も世界標準にならねばならないと思ったりする