正確に覚えていないのが情けないが、民主主義の起源のようなギリシアのポリスでは
全員が集まって話し合うのは現実的ではなく、その場にいられるのは抽選で選ばれたのだそうだ
日々の生活の細々したことは奴隷が行っているので、のんびりした生活ができて
少しばかり抽象的な政治の話をする余裕が市民にはあったようだ
でも抽選に当たった人の中には、面倒くさい!と感じる人もいたのではないか
みんながみんな意識高い系でいられるのは、現実的ではないと思われる
最近読んだ「人新世の資本論」(齋藤幸平)の中にフランスで行われた「気候市民会議」
のことが紹介されていた
それは150人の市民が集まって温室ガスの削減等について議論を交わしたのだが
何よりも参加する市民の選び方が興味深かった
それは選挙ではなく、くじ引きで選ばれたのだ
と言っても完全にランダムというわけではなく、年齢、性別、学歴、居住地など
実際の国民の構成になるように調整された
そうすると環境問題に意識高い系ばかりでなく、横着な人も一定数いることになる
(流石に150人の中にはいないかもしれないいが、いたほうが実態を現していそう)
もっとも関心のない人が一定数いるとしても、何も知らない状態で議論を進めるのは
現実的ではないので最初は専門家からのレクチャーが行われたようだ
(専門家の説明の方向性が気になるが)
世の中はこうるべき!と理屈(理想)で思っても、現実世界では全員がそんな風に思ったり
行動することはありえない(環境問題に対する意識とか政治に対する意識とか)
時が経ち、多くの人が理想を当たり前のように感じるようになるとしても、初期の段階では
無関心だったり、傍観者が多いことは容易に想像がつく
物事に社会的な変化を起こす数字は、3.5%だそうだ
何かを訴える人々がいて、その数が全体の3.5%を超えるとその運動は一気に広がりをもつらしい
これはイノベーター理論っぽくて、新商品をすぐに手に入れる人(イノベーター)
それを追いかける人、広がったのを見て手に入れる人、、、、と説明される
(これはスマホの普及の際がそうだったような気がする)
つまりは正規分布の左側の層が、ある閾値(3.5%)を超えると運動や考え方は
誰にでも当たり前の事柄として認識されるようになりそうということだ
新城市では、地域自治区やら若者議会やら女性議会やら福祉円卓会議やら
市長選候補者による公開討論会条例やら、外形的な制度は揃っている(かもしれない)
だがこれらの理解に、この閾値(3.5%)が現実に超えているかどうかを想像すると
かなり心もとない気がしてならない
多くの人々は、代表制民主主義を自分たちが楽ちんだから支持しているのではないか
自分たちが費やす時間の代わりを、自分たちが選んだ人たちに任せる
選ばれた人(議員)は、自分の選択はみんなの選択の現れとして判断を行う
でも彼らの判断は本当に市民の思いの縮図を表現したものか?
これをチェックしなければ、結局物事は少数者の言いなりになってしまう
だが、ここでまた問題が出てくる
彼らをチェックしようとする人々は3.5%の閾値を超えて存在するか、、
でも嘆いていても仕方ない、できることからやるしかない
さて何をすべきか、、