パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

テンプル騎士団(最後は金融機関となっていった)

2020年01月15日 15時17分21秒 | 

ヨーロッパ人と他の地域の人間と大きく違うのは 「テンプル騎士団」と「マグダラのマリア」の認識(知識量)かもしれない
それらはヨーロッパ人には当たり前の出来事や事実で 日本人にとっては新選組とか持統天皇が当てはまりそう(?)
テンプル騎士団は「フーコーの振り子」とか「レンヌ・ル・シャトーの謎」「ダ・ヴィンチ・コード」 などの本に出てきて
名前だけは頭に入っていたが、どのような団体なのかはわからずにいた
ただなんとなく、胡散臭そうな団体のイメージがあった

昨年末書店で目にしたのがこの「テンプル騎士団」

とりあえずじっくり基本から!と読み始めた
だが、この本はとても難しかった
難しい本というのは文体とか内容が慣れていない場合にそう感じるが
事実の羅列が多い場合にも難しいと感じてしまう
この本ではテンプル騎士団のメンバーの名前がいくつでも出てくる
何代目の総長とか十字軍として出かけた時の敵の名前だとか
正直言って手に負えないほどだった

そこで、名前はほとんど飛ばして読んだ
それでも大きな歴史と肝心なところはなんとなく理解できた

テンプル騎士団は十字軍の守りとして有志がつくった団体に過ぎなかったが
時を経るにつけ、土地を与えられ税金の免除を受け、主要道路に支部を置くようになり
各地で遠征に必要なものを調達できたり、街道の安全警備をしたり、お金を扱うようになり
ほとんど銀行のような役割を持つようになり、王朝にすらお金の工面を依頼されるようななった

この流れは、人間社会では当然そうなるだろうな、、と容易に想像できる
最終的に「金融」を扱うようになるのはメディチ家もロスチャイルド家も
似たようなもので、このどこにでも動きやすいお金はレーニンが「帝国主義論」で
決済の役割に過ぎなかった銀行が、現実には大きな力を持つようになるとする言い分を
思い起こさせる

13日の金曜日が不吉な日とされるのは、キリストが磔にされた日だけでなく
テンプル騎士団のメンバーが一斉に逮捕され、悲惨な結末を迎えることになったことも
その理由にあるらしい

ただこのテンプル騎士団は最終的には金融を扱っていたので膨大なお金があったはず
というのが、世間の評判にもあった(豊臣・武田の埋蔵金みたいな話)
この本では紹介されなかったが、昔BBCの放送された「レンヌ・ル・シャトーの謎」における
ソニエール神父の突然の浪費の原資はここにあるとの説も検討された

この本にはあまりにも膨大な人名と出来事が紹介され
ほとんど覚えきれなかったが、とにかく実感したことは
人間の組織は最後には金融に行き着くという事実

農協の収入源は金融であったり、楽天もソフトバンクも金融に力を入れたり
江戸時代の越後屋(三越)は三井銀行の傘下になったり、、、
その意味では貨幣が世界を仕切るようになる「欲望の資本主義」(NHKの番組)の
ひとつの現実を実感する

ところで、「ダ・ヴィンチ・コード」の元になった「レンヌ・ル・シャトーの謎」には
テンプル騎士団だけでなく、マグダラのマリアもそれなりに扱われていたと記憶している
ということで、現在は「マグダラのマリア」を読書中

※レンヌ・ル・シャトーの謎はこちらにアップされています→レンヌ・ル・シャトーの宝

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デモをする人、見る人、警備する人

2020年01月13日 08時26分36秒 | あれこれ考えること
「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損!」
徳島の阿波おどりの馴染みのフレーズ
参加したほうが何かと得だと行動を促している
これは抵抗感なく納得する人が多いだろうが、似たような行動で
なかなか参加できない事柄がある

それはデモだ
昨日、電車賃を使って名古屋に出かけ「安倍政権抗議デモ」と銘打たれたデモに参加した
デモはSNSでその存在を知った
集合場所は中区栄、大須近くの若宮広場、
コースは高架下の広場から矢場町の交差点をパルコに向かって歩き
そこを左折して三越まで行進、そこで左折して少しだけ歩きすぐに左折して大津通を
歩いて、パルコの裏側辺りまで歩いてそこで流れ解散となっている

デモは時々参加している
特に政治信条があるからではなくて、どちらかと言えばデモの現場を知りたい欲求の方が大きい
安保関連法案のときの国会前のデモも参加したが、これはメディアの報道が主催者発表の数字と
警察発表(?)の数が随分違うので、どちらが正しい数字なのかを自分自身で確かめたかった
他にもデモに参加している人々が一般の人たちなのか、それとも動員されたある組織のひとたちなのか
肌感覚で感じ取りたかった

デモは4列を作って車道を行進し、若い警察官が見守る形で行われた
デモを実際に経験するといろんな発見がある
まずは警官がとても若い人たちだったのが印象に残った
彼らはコースが乱れないように気を配るが、当たり前といえば当たり前かもしれないが
デモ参加者に対する態度は香港における警察の嫌悪感を持つようなそれではなかった
それは「デモする権利があるのでルール内で行動してほしい」と客観的な様子で
若い人はまだ染まっていない、彼らの仕事を抜きにした感情はどんなものだろうと
不意に思うのだった

デモ参加者には何も持ってこなかった人用に印刷物が準備されており、自分はその中から
「ねつ造 改ざん 隠ぺい 私物化、もう辞めろ」
と書かれたもの選び、道路側の人に見えるようにして歩いた
この印刷物の裏側は「反社会的政権を止める 肉球で止める」肉球新党 猫の生活が第一
とあり、こちら側は内側とした

デモは「安倍辞めろ」と声を上げていたが、これは個人攻撃のようでなかなか照れくさい
それよりは印刷物にあるような「ねつ造 改ざん 隠ぺい 私物化、もう辞めろ」
のほうが訴えやすいし、自分の気持ちに近い
だから行進が止まってこちら側を見ている人たちには、このメッセージが見えるようにして訴えた

踊る阿呆に見る阿呆
見る阿呆の方々は、このデモをどのように感じているのか気になった
見てる人の中には写真を撮ったり手を振る人もいたが、
大半は自分のこの日の生活(予定)以外は目に入らないような気がした
何故、こんなことをしているのだろう、、物好きな人たちだ、、、
というような冷めた目ではなかったが、それ以上に無関心の様子が見える
こちらは「いつか気づくことがある たまたま気がついてしまったので
気づいたものはその責任がある」と思い込み込むことにして、いま自分たちが
何に対して怒りを持っているのかを切実に知ってもらいたいと思う

三越前でレインボーの旗が目に入った
LGBTの運動をしている数人がデモに向かって手を振った
その少し先では、動物愛護団体(?)による「革製品の使用を止めよう」と訴える
人たちがやはり手を振った
なにか行動を起こすことに対する人たちは、どこかしら似た感覚・感じ方をするのかもしれない

いろんな人が自分の関心の範囲内で人々に何かを訴えている
不意に自分自身の思いを、こうして行動に現すことが特別な(人のする)ことではなく
ごく当たり前のことのようになったならば世の中は少しづつい変わるだろうと思った

デモをする人が特別の人ではなく、当たり前の日常になる
フランスの社会では、ダラダラと好き勝手に歩き、好き勝手に離脱するデモがよく行われるとも聞いている
このようなヒステリックにならず、しかしどうあるべきかの意思表示はしている緩いデモが
日本でも行わるようになれば、踊る阿呆の人も増えそうな気が、、、、


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砂糖醤油の焼き餅

2020年01月11日 08時18分01秒 | 徒然なるままに
今日は鏡開き
朝のTV番組で「好きなお餅は?」
と聞かれたタレントさんが
「砂糖醤油のお餅」
と答えた

懐かしい、、、
頭に浮かんだのはその思いだった
今はすっかり食べることのない「砂糖醤油」をつけての焼き餅だが
子供のころは焼き餅といえばこれが普通だった

掘り炬燵に家族の大半が座って、座る位置も決まっていて
自分は大好きな祖母の隣で、妹たちはその向かい、一番偉い祖父と父は上座
母はテレビを背にしてお櫃を横にしている
そこで食べた焼いたお餅が砂糖醤油を漬けるものだった

お餅と言えば(お酒の飲めない)祖父はみんなと違って湯餅にして食べていたし
父がとんでもない量の雑煮を食べていたのを思い出す

今思うと、何故みんな揃って食べることができたのだろう
父や祖父が帰ってくるまで食事を待っていたのか、、
それともふたりともそんなに遅く帰ってこなかったのだろうか

今はテレビも一人に一台で一人で見ているのと同様に
(食事も作ってあるにせよ)一人で食べることは当たり前の風景になっている

でもフト思い出す、この大家族の食事風景の記憶は、
あの頃は幸せだったんだなとしみじみ思う

ただ正月に来たモンスターたちの落ち着きの無さを思うと
祖父が子供時代の自分たちに「じっとしとれ!」と怒ったのもわかる気がする
一方で、子どもなんてじっとしていられる訳がない、、とも思う

砂糖醤油の一言でいろんな記憶が蘇ってきたが、それは「マドレーヌ」から
いろんなことを思い出したプルーストの「失われた時を求めて」と同じ体験だ

焼いた餅は最近はチーズをそえて海苔で巻いて食べるのが一番美味しく感じる
長生きした祖母も晩年はこの食べ方を好むようになっていたが
(チーズも美味しいと言って普通に食べられた)
時代によって好みは変わってくるものだ

さて鏡開き
準備しておいてくれてるので、昔を思い浮かべながら食べることにしよう
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録画しておいた第九を見た(聴いた)

2020年01月09日 19時14分48秒 | 音楽
録画しておいた年末のNHK交響楽団の第九を見た(聴いた)
シモーネ・ヤングの指揮でSNS上は高評価が多かったが
知り合いの方はケチョンケチョンの評価だった

そうした評価が耳に入るとなかなか冷静に聴けない
どうしてもどちらが自分の評価と似ているか考えてしまう

さてその結果は、、、、
この演奏をナマで聴いた人は幸せだったろうな!
単純にそう思った
ということは、気に入った演奏だったと言える

その次に感じたことはNHK交響楽団はうまいな!
ということ
音色もテレビを通して聴くだけだが、柔らかでトゲトゲしたところはない
特に個性的な感じはしないが、上手くついていく感じ

その次に感じたことは、年末にCDで聴いたディヴィッド・ジンマンに少し似ている気がした
もっとも似てると言っても全体の雰囲気で、それは現代の指揮者のパターンなのかもしれない
それぞれの楽器の音がよく聴こえて、スピーディで、活気があって
音響芸術としての交響曲を体験している感じだった

第九は最終楽章が注目されるが現時点の自分はむしろ第三楽章が好きだ
晩年の考えるような沈潜した音楽が聴ける
この音楽はどうしてもフルトヴェングラーのそれと比較してしまう
フルトヴェングラーの指揮する音楽はゆっくりしている
でも遅いのではなくしみじみと思いを告白しているかのよう
不思議なのは音を聴いているのだが、それは外で響いている楽器の音というよりは
自分の体の中、頭の中でなっているような感じがすることで
音楽が始まってしまたら自然に流れていくようで指揮という行為を感じない
そして2回奏されるファンファーレの効果、音色、感じることは
とても同じ楽譜の曲を聴いているとは思えない感じがする
(実はこの感覚が何度も聴くと薄れてしまうそうでフルトヴェングラーの演奏は何度も聴けずにいる
そしてその記憶の中の演奏で十分だとも思っている)

フルトヴェングラーの指揮は別格に凄いが、シモーネ・ヤングのそれもそういう表現があるのか
それも良いかも、、と感じさせるもので、今度近くにシモーネ・ヤングがきたら
聴きに行こうと思わせるものだった

それにしてもつくづく思ったのは、大好きなブルックナーの8番は
ベートーヴェンの第九の影響がしっかり残っているなということ
各楽章の性格付け、第三楽章の静的なピーク
最終楽章の力技によるまとめ方
でも時代と個性の要求するものが違うので、表現されるものは随分違う

今年はベートーヴェン生誕250年で彼に関するいろんな企画があるらしい
彼の作品は、エロイカ、ピアノ・ソナタ32番、弦楽四重奏曲14番がとっても大事な曲だが
ラズモフスキーの一番のアダージョほか考えさせるアダージョも捨てがたい
せっかくの記念イヤーだから滅多に生で聴けない音楽を聴きに行こう(あったならば)


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七草粥から連想する土方歳三

2020年01月07日 14時57分37秒 | あれこれ考えること

「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ」
春の七草が言えるようになってから時間が経っている
しかし情けないことに実際に生えている草を見て
どれがそれに当たるか判定することできない

土方歳三の豊玉発句集の中に
「春の草五色までは覚えけり」
があるが、自分は最後まで言えるので少しばかり自慢

1月7日 朝に七草粥をいただいた
正月に胃袋が疲れるほど食べていないが
最近はこうした軽いものが好ましくなってきている

昔からのものは何か理由があることらしいので
あれこれ考えずに従ったほうが良いのかもしれない

ところで、土方歳三を扱った司馬遼太郎の「燃えよ剣」が映画化されて
今年の5月に公開されるらしい
一時期、土方歳三はマイブームだった
多くのファンが行うように彼の縁の地を回った(日野、会津若松、函館など)
それだけでなく、一応一次資料的な島田魁日記とか永倉新八の書いたもの
他にもいろんな作家さんの作品を読んだ

キリスト教の新約聖書にはマタイ、ヨハネ、マルコ、ルカの4つがあるが
同じ内容(多少違う?)なのに何故4つもあるのだろうと思ったことがあるが
土方歳三に関してもいろんな作家さんが自分のイメージする彼を表現しているのを見ると
人は自分の思い描く人物像を表現したい気持ちを持つのだろう

当然のことながら自分にも土方歳三像がある
しかし、それは司馬遼太郎が描いたイメージとを少し違う
自分のイメージする土方歳三は豊玉発句集を書いた人物としての土方歳三で
鬼の副長とか最後の武士とか、そういったものではない
豊玉発句集の他の歌でイメージされる素朴な考え方を持つ人物

一方彼は合理的な考え方が好きで、規律とか組織づくりはそれによっていた
(ある時、幕府の医者の松本良順に不衛生な施設を批判されると
 あっという間にそれを訂正したエピソードがある)
実践的な経験を踏むに連れて、ものごとは理屈だけで動かないことを自覚し
最後は人を動かすのは「意気とか気持ち」で本来彼が持っていた人間性に
根ざす部分に還っていくが、この経過の部分が自分のイメージする土方歳三で
最後の武士的な肩肘を張りっぱなしの男とは少し違う
(映画の主演は岡田准一らしいが、一本気のイメージで終始しそうで心配)

まだ見ぬ先から心配してもしょうがないが、できればナイーブな土方歳三像が見られるといいのだが

ところで豊玉発句集は他に

おもしろき 夜着の列や 今朝の雪
朝茶飲みて そちこちすれば 霞なり
春の夜は 難しからぬ 噺かな
春雨や 客を帰して 客に行き
うぐいすや はたきの音も つい止める

など素朴なものがある
このような俳句を詠む人物があのようなことをしたというのは
随分無理をしたのだろうと思ってしまう



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丸山眞男、マックス・ウェーバーから

2020年01月06日 18時59分13秒 | あれこれ考えること

気になって書き残しておいたが、自分だけに納めておくのは勿体無いのでアップすることにする

ひとつは丸山眞男氏の著作から

近代生活の専門的分化とは機械化は人間をますます精神的に片輪にし、それだけ政治社会問題における無関心ないし無批判性が増大します。簡単にその重要な契機を例示しますと、まず技術的専門家に特有なニヒリズムがあげられます。おおよそ特殊分野のエキスパートに通有の心理として、自分の技術なり仕事なりを使ってくれさえすれば、それを使う政治的社会的な主体が何かということについては全く無関心で、いわば仕事のために仕事をする。毎日仕事に謀殺されるということそれ自体に生きる張りを感じる。これは単に自然科学の技術者に限らず、官庁とか大会社のような膨大な機構のなかで1つのデスクを持っている事務のエキスパートにも多分に見られる精神的傾向で、これが結果的にはいかなる悪しき社会的役割にも技術を役立て、いかなる反動的権力にも奉仕するということになりやすい。

この考えと少し似ているかもしれないと思うのがマックス・ウェーバーの以下の文章(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神から?)

文化発展の最後に現れる「未人たち」に対しては次の言葉が真理になるのではないだろうか「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なる者ものは、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめた、と自惚れるだろう。

再び丸山眞男氏に戻って

 現代政治の技術的複雑化からして、政治のことは政治の専門家でないと分からないから、そういう人に万事お任せするというパッシブな考え方が国民の間に発生しやすい。専門家に対する度を超えての無批判的信頼が近代人の特色の一つだとエーリッヒ・フロムも指摘していますが、これが政治の分野まで及んで、政治的無関心を増大させ、デモクラシーを内部から崩壊させていくのであります。一体、デモクラシーとは、素人が専門家を批判することの必要と意義を認めることの上に成立しているものであります。アリストテレスが「政治学」の中で、「家の住心地がいいかどうかを最終的に決めるのは建築技師ではなくその家の住人だ」ということを言っていますが、まさにこれが民主主義の根本の建前です。同じように料理がうまいかどうかを決めるのも、腕自慢のコックではなくて、それを食べる人です。どんなに最新の技術的知識をふるって作った料理でも、主人やお客さんがまずいと言えば、コックはその批判に従わなければなりません。「そんなはずはない。それはあなた方の嗜好のレヴェルが低いからだ」とか「文句があるならお前が作ってみろ」というような言い方は通りません。デモクラシーもその通りで、政策を立案したり実施したりするのは政治家や官僚でも、その当否を最終的に決めるのは、政策の影響を蒙る一般国民でなければならぬというのが健全なデモクラシーの精神です。

ぼーっと生きてんじゃねえよ!
と自ら叱咤していかないと(そして何か行動を起こさないと)危ない時代なのかもしれない



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「英雄たちの選択 藤原定家 三十一文字の革命」を見て

2020年01月05日 16時39分44秒 | あれこれ考えること

録画しておいたNHKの「英雄たちの選択 藤原定家 三十一文字の革命」を見た
昨年は嵐山の二尊院の上にある小倉山荘跡も訪れて、ここで百人一首を選んだのか
と感慨に耽ったものだった

京都御所のすぐ北側にある冷泉家も一般公開の時に覗いたし
名古屋の芸術劇コンサートホールで行われた冷泉家の七夕の乞巧奠(きこうでん)も見た
また堀田善衛による藤原定家の明月記の解説本もチラッと読んだ
つまり、藤原定家は気になる存在の人だ(真面目な西行さんよりは)

と言っても日常的にこれらの歌を味わうわけではないし、歌を覚えているわけでもない
ただ時々、こうしたあまり世間と関係のないような世界がとても恋しくなる
特に最近は七面倒な政治やら社会やら経済やらの本を読んでいることが多かったので
その反動として、知らず知らずに求めていたのかもしれない

番組の中で「歌は世界の平穏の、、、」みたいなところがあって
少しばかり良いことづくめすぎる気がしたが、それでも自分が自然と穏やかな気持ちになれる
こうした世界を求めてしまうのを思うと、あながち間違いでもなさそうな気もする

生活にはほとんど関係のないような、無駄なことのようにさえ思えてしまうこうした趣味の世界
それは結果的には人の心を争いごとから距離を置くようにさせる、、、
そんなことはあるかもしれないとウォーキング(7000歩以上歩かねば)しながら考えた

こうした世界が必要なことは漱石の草枕の冒頭にもあったみたいだが、その内容は忘れてしまった
でも、やっぱりこうした世界は人間世界には必要だと強く思う(思いたい)

 

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苦手な演奏(音色?)

2020年01月04日 18時29分45秒 | 音楽

音楽で感じたことを人に伝えるのは難しい
料理の味を伝えるのと同じで、いくら想像力を刺する表現でも
現実には食べてみないことにはわからない
以下のことが果たして他人に伝わるか(自分の中ではとても重要なことだが)

2日に購入した中古レコードを早速聴いてみた
まずはアシュケナージの弾くモーツァルトのピアノ・ソナタ17番とロンドイ短調
音が出るやいなや、「やっぱりな、、」という思うが頭に浮かんだ
アシュケナージはこういう音だ、鋼鉄の弦を叩いているようなよく響く音
ロシアのピアニズムの音と勝手に思っている音で、どちらかと言えば好みではない
A面を聴いたあとB目のK310のソナタを聴くのは気が乗らず止めてしまった
予想できたことで仕方ない

ピアノ絡みで次にバックハウスのベートーヴェンの11.12.15番のピアノ・ソナタを聴いた
「やっぱり、この音の方が好き」
音が聴こえるやいなや実感したのはこのことだった
余裕綽々でバリバリ弾いている感じ、妙な感情移入はないが肝心なところはきっちり把握してるような印象で
粒だった音は和音でもひつつひとつの音が聴こえるかのよう
これはAB面聴くこととなった
この中で「田園」と名付けられた15番のピアノ・ソナタの第2楽章は印象的な音楽で
ちょっとシューベルトを想像させるようなところがある
この曲は今まではグルダを聴いていたが、聴き比べるとものすごく印象が違うのに驚いた
今回のバックハウスは真面目一本で背筋を伸ばして聴くことを要求するようで
構造的なところに気を配っているようなイメージ
一方今まで聴いてきたグルダの方はウィーンの街の音楽のイメージ
音楽表現はいろいろあるものだ、、と実感
バックハウスもいいけどこの曲はグルダのほうが好きかも

その後で聴いたのがベーム指揮ウィーンフィルのヴァーグナーの管弦楽曲
最初にマイスタージンガーの第一幕の前奏曲を聴いた
オーケストラがベルリン・フィルではなくてウィーンフィルなので少々輝かしい音の演奏と
予想していたが、針が降りるやいなや想像したものよりも数段輝かしい音が耳に入った
「やっぱりベームとは相性が良くない」
予想通りとは言え少しがっかり
自分には金管の音がバランス的に表に出過ぎの印象

それにしても、不思議だ
明らかに苦手な演奏家は存在する
指揮ではベーム、アーノンクール、ピアノではアシュケナージ、マレイ・ペライア
の演奏はどこか居心地が悪くなってしまう

依然として何故そうなのかはわからないが
そういう事実があるということは、益々身にしみて感じるのだった

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今年最初に読んだ本(実践行動経済学)

2020年01月03日 18時16分21秒 | 

「今年最初」の続きで今回は本が対象
お正月も落ち着いて、本を読む時間がとれて今日読み終えたのが
「実践行動経済学」リチャード・セイラー+キャス・サンスティーン著

この本が最初で良かったのか?は微妙なところ
面白かったような、なかったような
前半部分の心理学的なところは以前読んだ「ファスト&ロー」とか「選択の科学」とか「予想通り不合理」
と似た内容だった(それが行動経済学なんだろうが)
アメリカの本によくあるように、いろんな例が列挙されている
演繹法というよりは帰納法のパターンで、深い洞察というよりは事実の羅列だ


そのあとでリバタリアン・バターナリズムによる思い切り現実的な対処法の提案となる
政治家の方々もこれらを前提に考えたほうが良いと思われるような指摘がいくつも見られる

この後半の部分は自分の身に置き換えることの簡単な投資とか医療などは
とりわけ理解がしやすかったが、住宅ローンなどのアメリカの事情の部分は少し困難が伴った

それにしてもはっきりしたのは、選択肢が多いということは自由かもしれないが
人にはストレスが掛かってしまうということ、適度にデフォルトでセットとしてある方が
人は生活しやすい、、という事実
同様な商品が多すぎると迷ってしまうし、保険のオプションなどはいくつもあれば決められない
(選択肢が多いことは良いことか?)

そしてつい現状維持とか、多く人のする方へと流れていく人間(の同調)の傾向は
これらの傾向を知っている政治家さんが選挙用の手段として用いると
少しばかり怖い!と感じてしまった

ところで、この本で失敗したことがあった
普段感じていたことが、まさにそのままそっくり記述されていたページがあった
そこでもう一度開いて書き残そうと思ったのだが、付箋を付けずにいたので
そのページが見つからない
確か左側のページだったはず、、、と探しても見つからない

がっかりするのは、最近、こんなことばっかりなこと、、、



 

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今年も中古レコードを買いに行った

2020年01月02日 18時27分06秒 | 音楽

今は元日から店が開いているが、自分が小さな頃は殆どの店が休みだった
「一年の計は元旦にありと言って、最初の日にお金を使うと
  一年中使うことになるから、使わないようにしなさい」
と祖母や母から言われたものだった

それが効いているかどうか微妙なところだが、今年の出費は
まずは神社のお賽銭、次にモンスターたちのお年玉
それから新城の桜淵公園で行われているイベント会場でチャリティだけで
財布の紐はゆるくはない

去年の1月の出費を見ると2日に中古レコードの出費があった
ほの国百貨店で行われた「中古レコード・CD大売り出し」で3枚で2140円使っている
始末しなきゃいけないが、このくらいなら今年も良いか!
と、今年で閉店してしまう地元で1軒だけの百貨店に出かけた

そういう見方をしているせいか、百貨店はどこか沈んだ感じだ
中古レコードがブームになりつつあると言っても
現実には自分の欲しいクラシック音楽のレコードは絶対量が少ない
凝ったものは東京までいかないと手に入れられないので
少しでも心に引っかかったものを買おうと探す

流石にオーケストラ絡みはカラヤンが多い
でもカラヤンは今は心に響かないのでパス
カラヤンの同時期で比較的評価の高いベームの指揮する良い組み合わせの収録曲の
アルバムもあったが、どうもベームは自分と相性が悪い
ブラームスの一番もモーツァルトのドン・ジョヴァンニもベートーヴェンの序曲集も
結局途中で針をあげてしまう(なにか違うんだな、、と)
唯一ヴァーグナーは面白いかもしれないと思っていたので
今日の一枚はベームの指揮するヴァーグナーの序曲・前奏曲集にした
(タンホイザー、リエンチ、マイスタージンガー、パルジファル収録)

全部で4枚購入したが、残る3枚は
ブルックナー交響曲1番 ヨッフム指揮  ベルリン・フィル
バックハウスのピアノでベートヴェンのピアノ・ソナタ11.12.15番
(バックハウスは思い入れもなくサバサバと弾いているが、音色と曲の把握ができてるようなところが好き)
アシュケナージのモーツァルトのピアノソナタ8番のイ短調と17番ニ長調、それとロンドイ短調
(アシュケナージも相性が良くないが、大好きなロンドイ短調が収録されているので)
この4枚でかかった費用は2380円
百貨店の駐車場代もでない出費だ

家に帰ると「全部で2380円だったよ」
と、言い訳するように同居人に伝える
このくらいの金額だと笑うだけで難しい顔はなし
今年最初の買い物は、、、聴いてみないとわからないが、、まずまず、、かな

 

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