地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

よこすか開国祭のスカ色113系 (03年)

2020-04-21 20:02:00 | 国鉄型車両


 武×漢肺炎蔓延に伴い、電車に乗ってどこかに行くのも自粛せざるを得ず自宅に引きこもっていると、お気楽に写真を撮っていた日々のことが無性に恋しくなり、むかし撮った画像を死蔵していた外付けHDを漁ってしまいがちになります。すると……「こんなシーンも撮っていたのか!」という画像が出るわ出るわ (笑)。そこでいくつか、デジ一眼導入から当ブログオープンまでの間に撮ったきり未アップだったシーンをレタッチしてみました。
 まずはこちら、2003年8月に開催された「よこすか開国祭」に協賛して、久々に横須賀まで入線した幕張のスカ色113系です☆



 最近はどのようなのか、余り着目していないのでよく分かりませんが (^^;)、毎年夏に横須賀市で行われるこの祭りに際し、一時期JREが積極的に協賛し、横須賀駅のかつての留置線に目玉車両を並べたり、臨時列車を運転したりといったことがありました。とりわけ2003年には、EF58 61と高崎の旧型客車を観覧に供したほか、記念列車として幕張の113系6連が久々に横須賀まで入線するということでしたので、デジ一眼 (EOS 10D) を導入して間もない私も、「それは良いのぅ」と釣られて出かけてみました。ふだんは余りJR系イベントには寄りつかない私ですが、横須賀は母親の出身地でもあり、横須賀駅+スカ色113系の組み合わせは非常に馴染み深いものでしたので、行かないわけには行かないという……。
 というわけで、炎天下の横須賀駅は、ヲタの人いきれでトホホなことになってしまいましたが、それでも当時はまだまだ国鉄型車両が大量に残っていた時代でしたので、2000年代後半以降の各地で見られるような激しいパニックというわけでもなく、折返しのため長時間停車していたこともあり、まあ幸せなひとときでもありました。

関西線時代のJRC213系5000番台

2020-02-12 21:49:00 | 国鉄型車両


 先般、JR東海は315系の新造を発表し、211系5000番台が置き換えられることになりましたが、既に飯田線に転じた213系5000番台は、トイレ設置やワンマン化などの改造を受けたこともあって、しばらくは安泰でしょうか。
 もっとも、飯田線に転じる前の213系5000番台は、デラックスさを強調した2扉転クロが、逆に急増する客に対応する上で徒になり、飯田線に回される前の一時期は、関西線や中央線で用いられながらも、かなり持て余した存在であったようにも記憶しています。



 というわけで、今から9年少々前に亀山で撮影した213系5000番台の4連シーンを、外付けHDから掘り起こしてアップしてみます。90年代に18きっぷ旅で関西線に乗る度に、165系が消えたのは寂しいと思いつつも、213系の転クロの豪華さにすっかり気を良くし、しかも当時まだまだ関西線は空いていましたので、ラクな気分で乗ったものですが、313系3000番台が関西線で大活躍する時代になると、混み混みな車内でショボーン……(それでも3000番台はボックスシートゆえ文句は言えませんが。笑)。亀山にて、ラッシュ時以外はこんな感じで寝ていた4連を眺め、嗚呼もったいないと思いつつ、何故同じ顔でも213系は211系とは桁違いの豪華車両に見えるのか……とひとしきり思案に耽ったのでした。やっぱこの手の2扉車って、ある種の憧れが詰まっているように思うのは私だけでしょうか。
 (JRC発足後の登場ですが、記事カテゴリは国鉄型としました)

国鉄時代遥か遠く・高崎のC61

2019-11-29 20:22:00 | 国鉄型車両


 中曽根元首相が逝去され、今日の世間は騒然としつつ業績の功過をいろいろと論じているところです。個人的には類い希な才能のステイツマンとしての事績には敬意を表しつつも、国鉄民営化がこのようなかたちで本当に良かったのかどうか、未だに疑問に思っているところです。
 地域会社に分割するとしても、三島会社の扱いや新幹線並行在来線の処遇について疑問の余地がありますし、貨物と同様の発想で長距離夜行列車の全国ネットワークを展開する独立採算会社「JR夜行」を何故つくらなかったのか、とも思います。繁盛する夜行バスが人手不足でこれ以上の増発の余地を見込めず、欧州では炭素排出量減少の大目標のもと中距離夜行列車の復権も云々されている中、誰にとっても便利なはずの夜行サービスが日本では絶滅に瀕しているのは、結局のところ地域会社にも夜行サービスを委ねてしまった結果ではないかと愚考します。



 何はともあれ、国鉄が消えてから32年余り。国鉄型車両もいよいよ加速度的に消え、昨日はついに東京駅からもMT54装備の国鉄型車両が完全に撤退する旨が発表される中、国鉄分割民営化の究極の責任者が世を去ったこともまた、時代の節目を強く感じさせるものがあります。
 そんな中曽根氏と言えば、やはり選挙区がある高崎。高崎という場所が、遠く過去のものになりつつある国鉄らしさを最も良く残している場所となっているのは、意図せざる不思議な逆説的偶然と言えるのかも知れません。
 というわけで、D51 498と並んで高崎のSL列車を支える存在であるC61 20のピカピカな姿をアップしておくことにします。来年には43系客車もニス塗り内装を復活させるとのことで楽しみです。勿論、ニスを塗りつぶしてリノリウム張りの床面とした明るい車内の近代化改造車も、高度成長時代に合わせた旧型客車の一時代を象徴していると思いますが、既に塗装は近代化改造車らしからぬ葡萄色に戻っていますので、全体的に昔返りで良いのではないか、と思います。

宮城乗物縦断 (16) 陸羽東線みのり

2019-11-15 21:36:00 | 国鉄型車両


 陸羽東線・古川駅の西にある奥州街道旧道の小さな踏切で撮り鉄した際には、陸羽東線の主役であるキハ110のみならず、キハ48「みのり」も撮影することが出来ました。スマフォをいじって古川駅の時刻表を見ていたところ、「何々?……あと30分待てば来るとな? どうせ今日はあと2kmほど歩いて、古川駅前の宿に泊まるだけだ……。4月も末で日没も遅いし、まぁ光も車体に当たるだろう。ならば撮る!」と決し、待つことしばし。遺憾ながらこの日はダイヤが少々乱れ、単線の哀しさで一旦ダイヤが乱れると次第に遅延が増幅されてしまい、結局50分以上待ち惚けただけでなく、太陽の位置もかなり動いて側面の光量が不足してしまいましたが、行き当たりばったりで連写できれば御の字というものでしょう。



 翌4月30日には、雨の中の古川を出発して (朝方陸羽東線を古川駅でちょこっと撮る計画は雨のためオジャン)、鉄道不毛地帯となってしまった栗原市の中心地である築館まで歩きましたので、結局このカットが、個人的平成最後の撮り鉄となりました。今回奥州街道を歩きながら撮り鉄するまで、個人的には「みのり」のデザインは正面が正直ビミョーだと思っており、乗ったこともなかったのですが、いざこうして行き当たりばったりで撮ってしまいますと、何となく「マイクロのキハ48みのり、何となく欲しいかも……」と思ってしまうのが困ったものです (汗)。もっとも、そもそもの生産数が少なかったようで、今やほとんど流通もしていないでしょうから、うっかり財布の紐を緩めずに済んで良かった良かった♪
 一方、キハ40系列がJRE管内で消えつつある今日、各地のJTは次第にHB-E300が主流となりつつあり、そのうち「みのり」も置き換え対象になることでしょう。出来ればその前に、もっとまともに側面を入れた編成写真を撮っておきたいものですが、その機会は巡ってきますかどうか。

仙台海沿い鉄遊覧 (2) 仙石線205系2way

2019-09-10 18:57:00 | 国鉄型車両


 奥州街道・宮城県内歩きのついでに撮影したカットはまだまだ続きますが、ここで少々脇道へ。2年少々前の仙台出張のついでに撮影したカットについて、仙石線205系の青帯標準編成をアップしたのみで全然手を付けていなかったことを思い出しましたので、一応撮ったという備忘録としてレタッチしてみました (滝汗)。
 仙石線の仙台〜高城町間は、かつて石巻行きの快速列車が風を切って走っていたのも、震災と復興、仙石東北ラインの新設を経て昔話となり、今や仙台近郊輸送に特化しているかの感があります。



 その結果、かつては石巻行き快速に優先的に用いられていたと思われる花形編成(クハを2wayシートに改造)も、今や宝の持ち腐れ状態で、各駅停車専科で走っています。
 そんな花形編成、各車両ごとにご丁寧に帯色を変えており、非常に目立つ存在ですが、2本あるうち1本はマンガッタンライナー・ラッピングとなっているため、本来のカラフル帯で走っているのは1本だけ (のはず)。仙台から石巻まで、短いようで実は結構長い仙石線にあって、短時間の撮影でそんな1本に当たったのは大変ラッキーな出来事でありました。ただ、統一感はイマイチないな……とも思いますので、KATOから出たこの編成の模型は入手しておりません (^^;)。