地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

100万アクセス記念・秩父800系@影森駅

2008-12-14 10:18:07 | 懐かし画像


 いつも当ブログをご覧頂き誠にありがとうございます m(_ _)m
 このたび当ブログは、100万アクセスの大台に到達しました。Teacupブログのカウント方式は単純なページヴュー数ではなく、各日ごとのIPアドレス総数によるものですので、それで100万というのは途方もない数字。正直なところ半信半疑です (^^;)。そして、記事数もいつの間にか1000突破! (爆) 何事にも飽きっぽい自分にしては、これまた途方もないことです (^^;;

 そんな記念すべき到達点における懐かし画像は、秩父鉄道の25年前の表情! 7000系の導入による1000系の置き換え、そして鉄コレ第9弾の発売を目前に控え、個人的に改めて秩父が熱い!ためですが、特に鉄コレを喉から手が出るほど楽しみにしていることから、旧塗装時代の800系の画像を漁ってみました(^^)。
 これまで度々記しております通り、小学生時代に国鉄半鋼製釣掛式電車党だった私は、小学校卒業 (=ようやく親が撮り鉄旅を許可) とまさに時を同じくして飯田線旧国王国が崩壊するのを嘆き悲しみ、私鉄釣掛党へと転向したのですが、そんな駆け出しの中1の秋、日帰りで東武東上&越生線と秩父に出かけ、釣掛天国に歓喜したのでした……。勿論最大の狙い目は東武73・78系と秩父100系でしたが、小学校の朝礼の時間に合わせて江ノ島線を駆け抜けていた小田急1800形 (地元の通称「かまぼこ」) 改め秩父800系も当然狙い目! 影森駅の留置線で、800系が午後の斜光線を浴びて眠っている光景に感激した私は、さっそくホームのタブレット扱い室(今の駅事務室) にいた駅員氏に「列車が当分来ない間、一瞬だけなら線路に下りても良い」旨の許可を頂き、堂々4連の編成写真をモノにしたのでした (*^^*)。
 鉄道の保安問題がしばしば云々される現在では絶対にこんなことは不可でしょう。しかし、当時は電化ローカル私鉄を訪れるファン自体が極めて少なく、現場とファンのあいだにそれなりの相互信頼があった良き時代であり、弱冠中学生であっても礼儀さえわきまえていれば、現場の方々も親切に受け入れて下さったものです。この撮影後は、はるばる神奈川県から来たということでとても歓迎され、タブレット扱い室で熱いお茶を頂き、余ったダイヤまで頂いたという……。ローカル私鉄って良いなぁ!と心の底から思ったことは言うまでもありません……。



 嗚呼! それにしても懐かしく慕わしい25年前の影森駅!!
 どこまでも澄み切った空に高く聳える武甲の峰。無機質ながらも愛くるしい秩父のマスコット・ヲキフ。そして釣掛のシブい役者・小田急「かまぼこ」改め秩父800系! 地味ながらも味わい深い鉄道スポットを訪ね歩く私の趣味活動において、偉大なる聖地・影森の美しい午後は、何物にも代え難い原点のひとつです。
 今や800系は歴史の中へ去り、隣接する○和電工の工場は貨物扱いを止め、ヲキ・ヲキフが複数編成たむろする光景も三輪鉱山の生産縮小により夢か幻となってしまい……武甲山もいつの間にか形を変えています。しかし、影森駅が今後も秩父鉄道の主要駅として存在し続ける限り、私の心もいつでも影森駅へと帰り、温故知新の言葉通り、さらなる趣味活動へ向けた糧を得ることでしょう。

 そしてこのブログも引き続き、そんな地味な鉄道シーンの日常に密着しながら、歳月を重ねてシブみを増した車両の魅力を中心に更新できればと思っております。
 同時に、突然ではございますが、100万アクセスという区切りをきっかけに、当ブログの内容(=管理人自身の濃いぃ偏向)をより反映させたブログ名にしようと考えまして、「地味鉄庵」と改名させて頂くことにしました。
 実を申しますと、最近は本当に仕事の量が激増し、お気づきの方もおられる通り撮り鉄活動をすることもままならず、100万アクセスを区切りに更新を終了しようと考えたこともありました。ただ、たまに気が向いたときに趣味的な妄想を綴る場を残しておくのも悪くはないかな、と思い直した次第です。更新頻度はたぶん、これまでのような1~2日間隔というわけには行かない場合が増えると思います(勿論ヒマなときには頻繁に更新するかも。笑)。それでも、しみじみと古き良き鉄道車両を愛でる皆様と、今後も引き続きのんびり・まったりと交流させて頂くことが出来れば、もともと引っ込み思案な管理人としては無上の幸せでございます。今後とも宜しくお引き立ての程お願い申し上げます m(_ _)m

90万アクセス御礼・箱根登山24年前の交代劇

2008-10-01 23:34:01 | 懐かし画像


 いつも当ブログをお楽しみ頂きまして誠にありがとうございます m(_ _)m
 このたび当ブログは90万アクセスとなりました。何事ものんびり・まったりが良いな……と思っている私から見れば、このアクセス数は異常としか思えないですね……(汗)。まぁ、今後も引き続きヒマが許す範囲で、三十路の戯れ言やショボい撮り鉄記録を楽しんで頂ける方との「趣味のツボの押し合い」が出来るような空間を保って行ければと思っております。
 さて、90万アクセス記念の懐かし画像として選んでみたのは、開業120周年を迎えていろいろな催しが行われている箱根登山の24年前の記録です。
 今年の箱根登山は、まず1003Fが小田急7000形を意識した登場時の塗装を復活させ、さらに9月には108号が小田急初代3000形 (SE車) を意識した金太郎塗装を復活させておりますが (金太郎108号、まだ撮りに行けていない……-_-;)、そこで改めて思うのは、1000形が「懐かしの旧塗装」を再現するようになるほど、その新造から年月が経ってしまったのだなぁ……ということです。私などは、1000形は未だに新型車両だと思っているのですが……(滝汗)。



 1003Fが24年選手となったということは、その登場によって長年来活躍してきた旧型車・モハ3形に2両の廃車が発生し、釣掛旧型車天国・箱根登山の牙城が崩れ始めてからも24年が経ったということで、改めてしみじみとしたものを感じます。
 とりあえず、1981年に1001Fがスイスの姉妹提携鉄道にちなんで「ベルニナ号」を名乗って登場し、見事ブルーリボン賞に輝いた時点では、恐らく2両編成の列車を増やす目的もあって旧型車の廃車は発生しませんでした (80年代前半まで、湯本=強羅間の区間運転は単行が当たり前。朝晩は小田原直通列車も単行で来ることがあり、季節によっては死ぬほど混雑しました。爆)。しかし、1003Fの登場によってついに、戦前製の車体で白熱灯を装備する113・115号が引退することになり、しかも新聞に「さよなら装飾を施して走る」旨が掲載されたのを目にした私は、まさに目の前が真っ暗になるような気分……。と申しますのも、箱根登山は幼い頃から家族旅行で定期的に訪れており、宿の窓から箱根登山の旧型車の姿を眺め、釣掛の音を聴くことで、幼い頃から半鋼製旧型車への愛を育んだからであります (ちょっとオーバーな表現ですが ^^;)。とくに、モハ2形のうち111・112と、モハ3形の113・114・115は車内が白熱灯であり、その暗〜い車内に心の底から癒しを感じておりました (根暗な少年でしたので。笑)。
 そんな白熱灯車が一気に2両も廃車になるというのは、物心ついた頃からの箱根登山との付き合いにおけるとてつもない一大事件……。そこで、なけなしの小遣いをはたいて113・115号の最後の姿を記録したのですが、如何せん経験の浅い中学生が「フルマニュアルコンパクトカメラ+フィルムの箱ヤマカン露出」で撮った出来の悪いネガが、さらに化学変化を起こして劣化してしまいましたので、かなり見苦しい画像である点はご容赦下さい (スキャン・レタッチは地獄……汗)。
 そんなひどいネガでも、やっぱり残っているだけマシ……と申しますか、いやー懐かしい! そして、登場したばかりの1003Fに「ベルよぉ……」と悪態をついていた私も、今や「登場時の姿は貴重だなぁ……特にこのドデカHM!」と思うようになってしまいました。トシはとりたくないですね (汗)。

【お知らせ】今月は業務繁忙につき、たぶん更新のペースが下がります。ご了承下さい。下手をすると完全に更新が滞って、ブログそのものが「みなさんさようなら」になりそうですが……(^^;)。

80万アクセス御礼・池上線の海坊主

2008-07-08 14:36:54 | 懐かし画像


 いつも当ブログをお楽しみ頂きまして誠にありがとうございます m(_ _)m
 当ブログはこのたび、80万アクセスの大台に到達しました。最近はとかく仕事が多忙を極め、貴重な息抜きである撮り鉄の時間を確保しづらくなっているほか、備忘録として記事をまとめようにもどんどん後回しになってしまい、撮影時の感動や感想が脳裏で薄れてしまうなど、ブログを更新する気力もついつい萎えがちです (汗)。とりあえず100万アクセスに至るまでは、体調と相談しつつマイペースで更新して行くつもりですので、ぼちぼちお楽しみ頂ければ幸いです。
 さて、80万アクセスにあたっての懐かし画像として何を引っ張り出そうか……と少々迷ったのですが、ここはやはり激動が続く東急に関連しまして、張り上げ屋根の釣掛式電車をフィーチャーしてみることにしましょう。とくに、今月は新7000系が2本増備され、いよいよ池上・多摩川線の変動が本番に向かう印象があるだけでなく (雪が谷の所属本数が2本から4本に倍増するだけでも全然存在感は変わることでしょう……)、池上線から先に捻出された1000系2両×2も、いよいよ来月から上田電鉄で営業運転を始めるようですので……。
 しかし、これらの画像を撮影した24年前の池上線といえば、圧倒的な最大勢力は前にもご紹介した名車・3450形! 当時影も形もなかった1000系すら放逐されるなんて全く想像も出来ませんでした (汗)。いっぽう、戦前のもうひとつの傑作である3500形は目蒲線に集中的に配置されておりましたが、それは恐らく、張り上げ屋根化した3500形であれば、青ガエル5000形やダイヤモンド7200系と一緒に走らせてもそれほど見劣りしないだろう……という思惑があったものと勝手に予想しております。ごくたまに目蒲線で3450形が姿を現すと、突如として古式蒼然とした雰囲気が漂っていたものですし……。そんな目蒲線の半分以上の区間が、今や最新鋭車両の頻繁運転路線として革命的に変化し、しかも日吉に延伸されたということで……はっきり申しましてアンビリーバボーです (滝汗)。



 もっとも個人的には、張り上げ屋根化されて「海坊主」のようになった3500形よりも、深い屋根がいかめしい3450形の方が全然お好みですので (古い写真で張り上げ屋根化前の3500形を目にするたびに「ああもったいない……」のひとことが ^^;)、僅かな小遣いで買ったフィルムを消費するのも自ずと3450形優先! (爆) ところが、その結果3500形を記録した手許のカットが極めて少なく、中学生時代の自分の愚かさがはっきり言って嘆かわしくなって来ます (^^;;;;
 そこで、池上線で辛うじて撮影しておいたデハ3650とクハ3850の画像をいま改めて眺めてみますと、「よくぞちゃんと撮っておいたもんだ! エライ!」と自分を褒めてやりたくなるというものです (エラくも何ともないのですが)。
 デハ3650は本来、戦時合併で出現した大東急最初の新型車両として記念すべき存在であり、ひょっとすると事の次第では他の路線 (今日の京急・小田急・相鉄・京王) にも標準型として導入されていたのかも知れません (但しその場合でも軌間の違いごとに形式は異なっていたはず)。しかし戦時の資材難のためクハとして登場することを強いられ、しかも6両の新造にとどまりました。恐らくその結果、3600というキレの良い形式名は、鉄道省から貰い受けた戦災復興車に譲ることにもなったわけで……3650形は3800形 (戦後のバス窓の意欲作ながら少量生産にとどまり5000系へ移行) と並んで、東急史の中でも薄幸な車両の代表格と言えましょう。
 しかし、そんな3650形も、7200系が入線するまでは何のかの言って池上線のスター! もちろん、戦後の新造車として3450形の相手をしていたクハ3850 (2枚目の画像) も張り上げ屋根に改造され、3450形に比べて「新しさ」をアピールしていましたが、所詮はクハ (^^;)。3450形が電動車の圧倒的多数を占めていた池上線おいて、デハ3650の張り上げ屋根と前パンの組み合わせは大いに見映えがしたものです……。とくに3650形の前面貫通扉つきバージョンは、ただの海坊主にはない硬派で男前なテイストがあって良いなぁ~と思ったものです (*^^*)。
 そんな池上線の3650形のうち一部がその後十和田に移り、今でも3655改め3603が貸切用車両として動態保存されているのは特筆すべきことでしょう! 3450・3500形が丁寧に使われ過ぎて、結局東急だけで車生を終えたことと比べますと、地味な存在にこそ最後に光が当たる……ということで、ちょっと痛快さを感じます。
 ちなみに十和田のモハ3603……七百留置中の姿しか撮ったことがないです (汗)。イベント走行をしてくれないものか……と思うのですが、それとも車籍が残っている今のうちに自分でチャーターしないといかんのかもなぁ……と (滝汗)。

70万アクセス御礼・22年前の江ノ電

2008-04-18 22:19:30 | 懐かし画像


 いつも当ブログをお楽しみ頂きまして誠にありがとうございます m(_ _)m 当ブログはこのたび、70万アクセスの大台に達しました。60万アクセスからは2ヶ月と10日ほど……ということで、改めて「こんなに地味な話題尽くしの、JR超人気臨時列車なんてまず出てこないブログに何故?」と思うのですが、まあ世の中それだけ人の好みもいろいろということなのでしょう (笑)。最近は忙しくてなかなか撮り鉄遠征も出来ず、前に撮り貯めたカットを小出しにすることが多いのは心苦しい限りではございますが、今後ともお気に召すまま、よろしくお付き合い下さいませ。
 というわけで選んでみた70万アクセス記念アップ画像は、いまを遡ること22年前の江ノ電の表情です。江ノ電といえば、先日模型の世界ではMODEMOから304Fと305Fの冷房バージョンが発売されましたが (^o^)、現実の世界では最近502Fが東急車輌で新造され、早速営業運転を開始しました。そこで、最後の300形・305Fの命運もあと僅かなのでは……と強く懸念せずにはいられません (-_-)。



 しかし今から22年前、1986年の時点では、300形は全6編成が揃ってバリバリの大活躍を続けており、しかも冷房改造・カルダン駆動化・室内化粧板の貼り替えetc..といった改造も受けておらず、潮風薫る街に日夜釣掛サウンドを響かせながら、ガタピシと走っておりました……(*^^*)。しかもこれらのカットを撮影したのは、1500形が営業運転を開始する直前でして、走っている電車が釣掛率100%だったのも懐かしいですね……。ただ、江ノ電といえば旧型車だったのが当たり前すぎて、当時は珍しくも何ともなかったこと、それに加えて301Fや306Fが消えていった1990年代は非鉄だったことから、結局これらの編成を記録したのはこれっきりでした (滝汗)。今思い出しますと、何と勿体なかったことか……の一言に尽きます。そして、同じ轍を踏まないためにも、今走っている旧型車は出来るだけ逃さずに記録しておきたいと思うのですが、今度は逆にヒマがないのが悲しいところですね。この趣味をしていると、こんなぼやきばかりですが……。
 ちなみにこのときは、高校合格をきっかけに自分のなけなしの貯金をはたき、足りないもう半額は親からの合格祝いを仰ぎまして、初めての一眼レフとしてキヤノンA-1を導入、その試し撮りを兼ねております。ああ懐かしい……。また予算不足のため、レンズは当初NewFD 50mm F1.4だけという何ともストイックな状態で、撮影時には画面構成上非常にツラい思いをしたものです。約1年後、ようやく2本目としてNewFD 135mm F3.5を中古で買ったときは嬉しかったですね~。それでもストイックなことには変わりないのですが、今となっては若かった頃の遠い思い出です (→今やすっかりズームレンズに頼りまくり ^^;)。

50万アクセス御礼・緑の上田交通

2007-11-23 13:54:04 | 懐かし画像


 いつも当ブログをお楽しみ頂きまして誠にありがとうございます m(_ _)m
 このたび当ブログは50万アクセスの大台に達しました。Teacupブログのカウンタは、単純なヒット数ではなく、1日あたりどれだけの異なるIPアドレスからアクセスがあったかをカウントするという点で厳格なのですが、それでいて50万アクセスですから、当初は思ってもみなかった数字に改めて驚いております。今後もヒマが許す限り、シブい車両を中心とした濃厚な話題をご提供できればと思いますので、宜しくお引き立てのほどお願い申し上げます。m(_ _)m
 というわけで今回の記念アップは、先日登場した東急池多摩線用の新7000系にかこつけまして、上田電鉄=上田交通が1500V昇圧を行う直前の1986年春夏に撮影したカットです。東急新7000系、計画段階のイラストを見ただけでは「うーん」」の一言でしたが、完成した姿を見てみますと、意外なほど違和感がない……。それは勿論、「走るんです」も完成度を高めてきたということでもあるのかも知れませんが、それ以上に新7000系の姿にデジャヴュを感じたからです (笑)。そしてはっきりと脳裏に浮かんだのは……昇圧時に導入された5000系の姿!



 1枚目は、昇圧に先立って完成していた下之郷の新車庫で出番を待っていた5000系2編成の記録です (許可を得て撮影)。しかし惜しいことに、個人的に5000系の上田時代を撮影したのはこの1枚のみ (滝汗)。何故なら……当時の私は圧倒的に半鋼製釣掛式電車に思い入れておりまして、しかも雀の涙の小遣いでリバーサルフィルムを買うのは決死の覚悟。たとえ生まれながらにして東急5000系に親しんでいたとはいっても、これから750V旧型車を追いやって当たり前のように活躍を始めるカエルのために切るシャッターは1カットだけだ……という発想しか持ち得なかったのであります (^^;)。当時もし既にデジタルカメラが普及していたとすれば、他にも上田駅側線に留置されていた分も含めて、カエルについても撮りまくっていたと思うのですが、後悔先に立たず……とりあえず車庫も電車もピカピカな下之郷の雰囲気を記録しただけでも貴重なのかも知れません。
 むしろ、緑帯の5000系よりも当時はるかに注目していたのが、上田交通の異端車・デハ3310です。言うまでもなく東急3300系の中の1両として池上線で活躍していたこの車両は、半鋼製クハ1両とともに上田交通に貸し出され (のちクハは全金属車3772に差し替え)、朝ラッシュ時に上田原→中塩田→上田→上田原という順路を走るだけの細々とした活躍をしていました。それが如何に例外的で地味であるかは、他の車両の濃紺+白塗装ではなく、貸し出しがやがて譲渡扱いに変わった後もずっと緑塗装のままで走り続けた点、そして何よりも上田式の改番 (1桁目が出力、2桁目が制御方式を表す。またデハ→モハ) を受けなかった点に現れていると思います。そんな特異さや、親会社の車両であるにもかかわらず継子扱いであるあたり、デハ3310は何とも言えない哀愁を漂わせておりまして、雪晴れの朝の中塩田駅を訪れた際にも思わず激写してしまいました。じつはこのときの上田訪問は中学卒業記念 (笑)。ピチピチな女の子よりもヘロヘロな旧型車!という考えでしたので、我ながら酔狂な思春期だったなぁと思います (^^;
 しかし、86年春の時点ではまだ5000系の緑帯塗装を知る由もなく、まさか親会社のグリーンがやがて5000系→7200系と引き継がれる上田標準色となり、今また池多摩線にフィードバックされて (?)、上田ガエルを思い出す新7000系が走り出すことになろうとは夢にも思っていなかったのでした。

※この記事は22日夜9時半にアップしておりますが、23日付とさせて頂きます。