【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

朝日新聞「熱狂の果て」が報じない鳩山スタンディングオベーション男のその後とは?

2012年12月05日 16時52分56秒 | 第46回衆院選(2012年12月)大惨敗


 総選挙となると、新聞社は政治部だけでなく、社会部、経済部、支局もそわそわしてくるものです。私は第42回衆院選で横浜支局で神奈川県内の速報を取り仕切った経験があります。とはいえ、日本経済新聞だけに、「他社が選挙取材でかかりっきりになるのにつられて、日経新聞の本業である経済取材がおろそかにならないように」と東京本社地方部から全国向けにファクスが送られてきました。

 そうはいっても、朝日新聞はさすがで、公示翌日5日付の第一社会面で、社会部ないしは支局の記者が書いた「熱狂の果てーー乱流総選挙」は読ませるものがありました。第44回2005年郵政解散、第45回2009年政権交代選挙を経た第46回衆院選にあたって「工場が次々撤退の浜松」「公共事業が減る新潟」という2本の見出しを立てたルポルタージュ。前日の経済面の農業ルポに続いて、さすがです。

 浜松を含む東海経済圏・中京工業地帯はリーマン・ショック・震災・タイ洪水の後も、日本経済を先導してきましたが、内閣府の地域経済動向では、全国11地域の中で唯一「東海地方は悪化している」となっています。これまでが良かっただけに、真っ逆さまに落ちつつあります。こうなると、現与党には選挙情勢が厳しくなるのは、議会制デモクラシーの先進国では当然の法則です。

 朝日ルポで登場した機械部品加工業の70歳代の男性は、ここは静岡7区になりますが、05郵政選挙のときに、JR浜松駅前広場に小泉純一郎自民党総裁(首相)の演説を聴きに行った話も載っています。JR浜松駅前は静岡8区になります。静岡8区は浜松市のうち、中区(花川町・西丘町を除く)、東区、南区(増楽町、高塚町、東若林町、若林町を除く)で構成しています。第46回衆院選には、自民党公認で前職の塩谷立(しおのや・りゅう)前自民党総務会長・元文部科学大臣、日本未来の党公認で新人の太田真平さん、民主党公認で前職の斉藤進さん、日本共産党公認で元職の平賀高成さん、みんなの党公認で新人の源馬謙太郎さんが立候補しています。第45回衆院選では斉藤進さんが得票率48・9%で当選し、塩谷立さんが得票率45・4%(惜敗率92・82%)で比例東海ブロックで復活当選しました。

 
[写真]自民党の塩谷立前総務会長

 朝日ルポによると、社長さんは浜松創業の世界的メーカーの1次下請けとしてオートバイのアルミフレームを30年間納入し、繁忙期は夜10時過ぎまでの機械を動かしてきましたが、公示日、「もう3日間、機械は止まったまま。おまんま食い上げだよ」と語ったとのこと。2005年郵政選挙では、JR浜松駅前広場で小泉純一郎自民党総裁に「古い組織から、目新しい人が出てきたんだから」と魅力を感じたそうです。その1年後に、世界的メーカーは国内市場の低迷から二輪車生産を熊本県に集約すると発表し、2009年3月に生産を終了し、発注はピタリとやんだそうです。2007年から2010年にかけて浜松市の製造業者数は2900→2300に減りました。2009年8月の政権交代で「何かが変わるかもしれない」。それから3年余り。家族3人で乗用車の部品加工でしのぐが、立場は2次下請けに。「改革、マニフェスト、皆だめだった。もう失敗できない。余力、ないもん」。ーー投票先はまだ決めていない、と朝日記事はまとめています。

 ◇

 2009年夏。政権交代。

 朝日新聞は、政権交代後、事実上初の国会となった第173回臨時国会召集3週間後の朝日新聞日曜版の1面企画記事は次のような書き出しで始まります。

[2009年11月15日(日)付け朝日新聞1面「政権交代60日目」から引用はじめ]

 スタンディングオベーションの仕掛け人--。夕刊紙にこう報じられた。

 10月26日、鳩山由紀夫首相の所信表明演説。2列目に座っていた斉藤進氏(39)は演説が終わると同時に思わず立ち上がった。だれに指示されたわけでもなかったが、「遊説で私の手を離そうとしないおばあさんがいた」と紹介した、自殺で息子を亡くしたお年寄りのくだりに感極まっていた。

 そんな斉藤氏が、近く自らも国会の舞台に立つ。委員会で質問する機会を得たのだ。

 東京・小平市議だった06年5月、党の公募に応じ、1年後に母親の出身地・浜松市を含む静岡8区の立候補予定者になった。総選挙まで2年間、延べ3万軒を自転車で回り、有権者の声に耳を傾けた。

 「昨夏に汗をかきながら寄って下さった時、好感の持てる方だと感じました」。当選直後にメールが届いた。夫が慢性骨髄性白血病で3千円の薬を毎日4錠飲む、月8万円の出費は苦しい--。自己負担を軽くしてほしいと訴える内容だった。

 斉藤氏は、政務三役と民主党議員の対話の場である、厚生労働省の政策会議で訴えようと意気込んだ。だが、10月13日の初会議は指名すらされなかった。旧知の厚労政務官に駆け寄って「どうすればいいのか」と聞いたが、「質問は厚生労働委員会でやって欲しいが、難しいかもしれない」。

 11月6日夕、その厚労委の理事から、質問を希望するかどうかの調査票が回ってきた。締め切りまで1時間。支持者から要望が寄せられていた不妊治療の問題とあわせて2項目を記し、ファクスで送り返した。

 希望はかなった。国会図書館に足を運んで厚労省や社会保険庁の資料を集めた。議員会館には弟と大学弁論部の後輩しかおらず、ほとんど1人でこなした。脱官僚依存に反するかも知れないと、官僚を呼んで説明を求めることはしていなかったが、同僚に相談したら「もう何度も会っているよ」。早速、厚労省や衆院調査局に電話した。

 13日。議員会館の事務所を厚労省課長補佐、衆院調査局スタッフが相次いで訪れた。これまでの勉強の成果を確認するような質問を重ね、レクチャーは計3時間に及んだ。

 委員会質問は18日の予定だ。それに向け、16日にはメールをくれた女性と会う。「声を上げられない人の声を誰かが訴えないと、国政も動いていかないと思う」

(後略)

[引用おわり]

 当ブログでは第173回臨時国会召集初日のエントリーで「所信表明で異例のスタンディングオベーション 起こしたのは新人の斉藤進さん」と書きました。


[画像]鳩山首相の所信表明演説が終わるやいなや、立ち上がって拍手した斉藤進議員、2009年10月26日、衆議院インターネット審議中継から。


[写真]斉藤進議員が立ち上がったのにつられて、総立ちになり拍手するスタンディングオベーションを鳩山首相に送る民主党議員たち、2009年10月26日衆議院本会議、テレビニュースから。

 この日の私の国会傍聴ノートをみると、「2時2分 議長入場。総理、拍手すごい、ひな壇」とかかれ「あの暑い夏の総選挙の日から2ヶ月~~」と演説が始まったことが見て取れます。そして「2時18分 ミスがおこってもそれをかくさずにーー」との演説の部分では赤い鉛筆で丸囲みにし、「ディスクロージャー」と書きなぐった当時の私を思い出します。ただ、「私の尊敬するアインシュタイン博士」との下りでは、ノートの欄外に、「きょうは外交官の傍聴が多いけど、メッセージなのか」という趣旨のメモをしています。そして「2時55分」「ねらっていた? 斉藤進さん、立ち上がる→○国対副委員長渋々→全体 さらに菅副総理、岡田外相、ひな壇は2人だけ」とのメモがあります。このときの映像については、「某国のようだ」などの声がネット上で流れ、民主党1期生を「フラワーロック隊」と揶揄するようになりました。


[画像]初当選直後の斉藤進衆議院議員、画像中央、2009年、NHKスペシャル「永田町権力の興亡」から。

 そして明くる2010年の第174回通常国会。1月29日の鳩山首相の施政方針演説の本会議での私のノートには「民主党はひな壇 関係(者)入場に拍手なし。(与党閣僚席である)ひなだんに座るまで(結党以来)11年もかかったのにあっという間にその価値は忘れられました」とメモ書きしてあります。「命を守りたい。命を守りたいと思うのです」という施政方針演説の終了後、斉藤さんは立ち上がらず、スタンディングオベーションも起きませんでした。これが大事。しっかりと休符を打っている。斉藤さんの静岡8区内にある浜松アクトシティには世界を代表する楽団が演奏し、新幹線を使って全国からファンが集まりますが、その浜松アクトシティで指揮がとれそうなメリハリ。目立つだけではなく、目立たないことも政治の大事な要素です。私はここに斉藤進さんのメリハリを感じます。

 鳩山内閣は9ヶ月間で、支持率が70%→20%へと真っ逆さまに落ち、退陣直後の公示された第22回参院選で民主党は大敗。衆参ねじれのまま、大震災を迎え、第45期衆院は解散しました。

 その後の斉藤さんですが、こちらは解散4時間前の斉藤進・衆議院議員(当時)です。ごらんのように元気です。


[写真]3年3ヶ月の議員生活を過ごした議員会館自室でポーズをとる斉藤進・民主党衆議院議員、2012年11月16日(金)の解散4時間前、筆者撮影。

 この3年3ヶ月間、斉藤さんは衆議院厚生労働委員を務めました。当選前のリーフレットには「1税金の無駄遣いを一掃!」「2誰もが安心して暮らせる国へ!介護、医療、障害者福祉、子育て、教育、年金」と書いてあります。そして直近のビラには、「格差を縮めて誰もが安心して暮らせる社会をつくる」として、「政権交代以前は、新自由主義と呼ばれるような、行き過ぎた規制緩和や社会福祉切り捨てなどの諸政策が当時の(自民党の)政府により行われ、医療や介護、障がい者施策、雇用の分野を含め、様々な制度が壊され、多くの方々が苦しむ結果となりました」としています。そのうえで、「私は、政治は誰もが人生を送る中で、その立場になりうる弱い立場の方々を支えるためにある」と書いています。当選後、議員特権を自慢し、酒池肉林に溺れ、ふんぞり返った傲慢な人も目の当たりにしました。が、斉藤さんはこの3年3ヶ月間ぶれていないし、謙虚だったように、私は感じました。

 もちろん、与党とはいえ1年生ですから、第45期衆議院において特筆すべき実績はありません。上の写真のように、厚生労働関係が8割、地元関係が1割、各種団体・役所から寄せられた要望書や資料をていねいに整頓しているとはいえ、山積みになっている斉藤議員の姿があります。これが一つの実績です。そしてもう一つ。

 
[写真]解散の朝の、衆議院青山仮議員宿舎、筆者撮影。

 斉藤さんが3年3ヶ月、東京で寝起きしたのは、青山宿舎(仮宿舎)です。お化けがでそうな古くて狭い建物です。家賃も安い。

 ご存じの通り、民主党議員は都内に自宅などを持っている人が少ないため、政権交代で、赤坂議員宿舎が満杯となりました。そのため、1期生のうち、年齢順に赤坂宿舎に入れるよう民主党国会対策委員会が手配したのですが、斉藤さんは現在42歳ですから、赤坂宿舎に入ろうとすれば入れたのでしょうが、家賃が安い青山宿舎に入りました。

 民主党政権の実績は仕分けです。そして、消費税が再来年4月から上がりますので、その増収分をどのように分配するか、第46期衆議院では、より仕分け力がある議員が必要になります。そのための議員は高潔でなければならないと私は考えています。とはいえ、景気が悪ければ、現政権与党に鉄槌を下すのが、議会制デモクラシーの先進国でみられる傾向。そのような投票行動が我が国でも主流になるでしょう。こういった観点から、私は興味深く、この選挙区を見守っているところです。様々な要素を含んだ議員仕分けがなされます。

 
[画像]JR浜松駅前の「出世の街 浜松」の看板。

 「出世の街 浜松」。しかし、今、日本でも有数の雇用難にさいなまれています。リーマンショックの2番底があるとは思わなかったでしょう。浜松の社長さんは「今月いっぱいで工場を閉めればギリギリ収支トントンになるから、今月で会社やめるから」とあっさり言うこともあるようです。斉藤さんは衆議院東日本大震災復興特別委員もやりました。第177回通常国会(震災国会)の7月13日には質疑に立ち、「震災から四カ月が経過しました。この間、私も、岩手、宮城、福島の各被災地に赴きまして、瓦れきの撤去やヘドロの除去といった支援活動を初め、避難所のニーズや被災者、事業者向けの雇用の特例制度の運用状況、原発作業員の方々の健康管理、環境改善などの調査活動を行ってまいりました」と話しています。このころの斉藤さんは「もう3週間も妻と子どもの顔を見ていないんですよ」と嘆きながら、被災地に行きっきりになっており、同僚から「斉藤さんはまだ地元の地盤が固まっていないのに、あんなに被災地に行きっきりで大丈夫だろうか」と心配されていました。浜松も震災によるサプライチェーンの寸断による被害が大きかったようですが、「困ったときには、もっと大変な所に行け」という社長さんが多かったそうで「浜松の人にはそういうところがある」と浜松出張のさいに私は聞きました。本田宗一郎は政経塾こそつくりませんでしたが、その日本経済への貢献は多大です。浜松生まれの斉藤進さんを、第46回衆議院議院総選挙で、浜松の方々がどう評価するのか興味のあるところです。

[朝日新聞過去記事データベースから引用はじめ]

政権交代 60日目)闘病のメール、原動力に 民主1年生、143人の2カ月
2009.11.15 東京朝刊 1頁 1総合 (全3,658字) 

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 スタンディングオベーションの仕掛け人--。夕刊紙にこう報じられた。

 10月26日、鳩山由紀夫首相の所信表明演説。2列目に座っていた斉藤進氏(39)は演説が終わると同時に思わず立ち上がった。だれに指示されたわけでもなかったが、「遊説で私の手を離そうとしないおばあさんがいた」と紹介した、自殺で息子を亡くしたお年寄りのくだりに感極まっていた。

 そんな斉藤氏が、近く自らも国会の舞台に立つ。委員会で質問する機会を得たのだ。

 東京・小平市議だった06年5月、党の公募に応じ、1年後に母親の出身地・浜松市を含む静岡8区の立候補予定者になった。総選挙まで2年間、延べ3万軒を自転車で回り、有権者の声に耳を傾けた。

 「昨夏に汗をかきながら寄って下さった時、好感の持てる方だと感じました」。当選直後にメールが届いた。夫が慢性骨髄性白血病で3千円の薬を毎日4錠飲む、月8万円の出費は苦しい--。自己負担を軽くしてほしいと訴える内容だった。

 斉藤氏は、政務三役と民主党議員の対話の場である、厚生労働省の政策会議で訴えようと意気込んだ。だが、10月13日の初会議は指名すらされなかった。旧知の厚労政務官に駆け寄って「どうすればいいのか」と聞いたが、「質問は厚生労働委員会でやって欲しいが、難しいかもしれない」。

 11月6日夕、その厚労委の理事から、質問を希望するかどうかの調査票が回ってきた。締め切りまで1時間。支持者から要望が寄せられていた不妊治療の問題とあわせて2項目を記し、ファクスで送り返した。

 希望はかなった。国会図書館に足を運んで厚労省や社会保険庁の資料を集めた。議員会館には弟と大学弁論部の後輩しかおらず、ほとんど1人でこなした。脱官僚依存に反するかも知れないと、官僚を呼んで説明を求めることはしていなかったが、同僚に相談したら「もう何度も会っているよ」。早速、厚労省や衆院調査局に電話した。

 13日。議員会館の事務所を厚労省課長補佐、衆院調査局スタッフが相次いで訪れた。これまでの勉強の成果を確認するような質問を重ね、レクチャーは計3時間に及んだ。

 委員会質問は18日の予定だ。それに向け、16日にはメールをくれた女性と会う。「声を上げられない人の声を誰かが訴えないと、国政も動いていかないと思う」(小川弘平)

     ◇

 鳩山政権の船出から2カ月。143人の民主党の新人議員たちは、党運営の息苦しさ、政策に関与できないもどかしさを感じながらも、政治主導の一翼を担おうと模索している。1年生たちの試行錯誤を追った。

 

 (2面に続く)

  受け取った名刺1000枚超す 現場の声「我々が伝える」 民主1年生の2カ月

  (1面から続く)

  9月16日、初登院。玉木雄一郎氏(40)は興奮して寝付けず、ホテルから小1時間歩いて午前3時に国会に着いた。一番乗りの同僚と自己紹介や選挙戦の苦労話をしたあと、朝8時の開門まで、携帯電話に登録してある番号を見返しては、4年間の浪人生活に思いをはせた。「いろんな人に助けてもらったなあ」

 それから2カ月。受け取った名刺は1千枚を超えた。連絡先の登録が携帯1台ではあふれ、米アップル製の端末「iPhone(アイフォーン)」を買った。

 香川県さぬき市出身で、父は元農協職員。財務省主計局主査だった05年に「霞が関は机の上で政策を決めている」と香川2区で立候補し、今年2度目の挑戦で当選した。

 妻と子どもを地元に残し、議員宿舎で単身生活。起床は午前5時ごろ。腕立て伏せやスクワットをし、バナナやゼリー飲料の朝食。そして、その日着るワイシャツにアイロンをかける。「大げさに言えば精神統一の儀式です」

 11月12日朝7時半、歩いて衆院議員会館へ。民主党農林水産委員会質問研究会に出た。政務三役と党に残った議員が話し合う場として、省庁ごとに「政策会議」が設けられた。「質問研究会」はその下部組織のようなものだ。

 思い切って手を挙げ、政府に意見が届かないもどかしさを、約100人を前に発言した。「政務三役は忙しすぎて『事務』に追われている。我々が地元を歩き、生の声を聴き、現場の思いを政府へ伝えるべきだ」。2~3人から拍手も起きた。

 党政策調査会が廃止され、国会での与党議員の質問省略も打ち出された。1年生には、地元回り優先や朝の会議への出席のほか、派閥の会合出席は好ましくないといった様々なしばりがかけられている。「小沢幹事長の恐怖政治だ」「新人は言われたことだけやれ、ということか」と不満を漏らす1年生もいるが、公然とは口にしない。

 玉木氏の発言は、こうした中では踏み込んだものだった。「みんなおとなしいと感じる時もある。僕の口は選挙区の人たちの口。あいつ目立ってるな、ぐらいでちょうど良い」

 日中は会議や陳情、面会が重なる。「障害者施設の改装に補助金がもう少し増えないだろうか」と相談を受けると、厚生労働省に問い合わせる。県や自治体が示した補助金の算出式に誤りがあり、1億円の増額が認められたという。支持者から鳩山由紀夫首相のサインを頼まれ、周辺の人たちに頼んでいたら「所信表明演説をした歴史的な10月26日にもらえました」。

 13日には、民主党議員との人脈を作ろうと訪ねてきたフランス大使館員に日仏の政治の違いを説明した。「メニー、メニー、アマクダリ」「私の選挙区の産業は農林水産業。『農業ってかっこいい』と思わせるくらいにならないといけない」

 夜は、会合を終えると事務所に戻る。受け取った名刺や勉強会の資料を整理するためだ。「田中角栄は毎晩その日にもらった名刺を眺め、覚えてから寝た、と聞いたことがある。その域に近づきたくて」

 14日は羽田午前7時40分発の便で地元へ。高松空港で待っていた父の車に乗ると、選挙区の農家を訪ねて回った。「高齢化が進み、畑を耕す人がいなくなる」「不況で得意先の外食産業の業績が悪くなり、農家は安定収入が得られないままだ」。メモ帳に切実な声がつづられていく。

 「今まさに日本は変わりつつあります!」。夜は公民館で国政報告会を開き、玉木氏は詰めかけた男女約80人に説いた。「政権交代で隠されていた世の中の動きが見えるようになってきた。好例が事業仕分け。財務省で予算を担当していたから分かるが、今までは省庁の担当同士の『なれ合い』。一部だが編成過程が国民の前にオープンになった。これは革命的なことなんです」(上地兼太郎)

 

 ◆宿舎 一時はカプセルホテル

 奈良3区の吉川政重氏(46)は赤坂議員宿舎に入らず、1泊4千円のカプセルホテルを寝床にしてきた。朝、歯ブラシや着替えを詰めたバッグを抱えて議員会館に向かう。

 衆院唯一の議員宿舎である赤坂宿舎は家賃9万2千円で、完成時に「豪華で安い」と批判された。「こんな豪勢な所に住めば自分は偉いのだと勘違いする」と入居を希望せず、青山宿舎の改修工事が終わるのを待つ身だ。赤坂宿舎に入居できた新人は約80人で、ホテル暮らしの新人は少なくない。

 借り入れた選挙費用や事務所維持費もあり、経費を切りつめたいとの本音もある。見かねた支援者の紹介で、吉川氏は1カ月前から天理教の施設で寝泊まりさせてもらうように。畳部屋で自分で布団を敷き、洗面台で洗濯する生活だが、「荷物を運ばない分、楽になった」。(下司佳代子)

 

 ◆地元 「北風路線」「太陽路線」

 「スムーズに話し合っていくためにも『鎧(よろい)』を脱いでほしい」。石川3区の近藤和也氏(35)は4日、陳情で初めて議員会館を訪れた地元・珠洲(すず)市の泉谷満寿裕(いずみやますひろ)市長(45)に、挑発的な言い方で自民党と距離を置くよう促した。泉谷市長は「自民を応援したとか、小さなことにこだわらず、いろんな意見を聞くべきだ」と言い返した。次の選挙に向け、首長をどう引き寄せるか。近藤氏は「北風路線」で臨むが、泉谷市長は「彼の発想は自民党を根絶やしにすることだ」と、今のところは平行線だ。

 喫茶店マスターやラジオDJ、建設コンサルタントの経歴を持つ京都1区の平智之氏(50)は「太陽路線」だ。

 政策会議は秘書と手分けして必ず出席。配布資料を名刺交換した地元の人に郵送したり、メールで送信したり。中小企業金融円滑化法の資料は銀行員へ、取り調べの可視化なら弁護士にといった具合だ。「政策決定の過程を有権者に伝えるのは新人の役割だ」(菊地直己、松谷慶子)

 

 ◆仲間 同じ名字や隣県で共闘

 11日、「たまき会」の初会合が国会近くの居酒屋であった。新人研修後のパーティーで、比例近畿の玉置公良氏(55)が名字の読みが同じ玉木朝子(57、比例北関東)、玉木雄一郎(40、香川2区)、玉城デニー(50、沖縄3区)各氏に呼びかけたもので、「官僚主導が進んでいないか。政治主導を貫けるのか。チェックしなければ」と語り合った。

 玉置氏は和歌山が選挙区。世界遺産「熊野古道」がまたがるからと、それぞれ奈良、三重が選挙区の大西孝典(53)、藤田大助(33)両氏と「三県会」もつくっている。(増田啓佑)

[朝日新聞過去記事データベースから引用おわり]

当ブログ内から引用はじめ] 

 政治に必要なのは「言葉と想像力とほんの少しのお金」と言われますが、これに加えて「態度」で政治が動く時代を迎えつつあるといえます。


 「幸せなら態度で示そうよ」という歌がありますが、日本国民だから日本語が堪能とは限らないし、コミュニケーションの取り方が難しい時代です。ネット社会もしかり。だからこそ、今こそ態度でハッキリ示すことが大事です。

 第173臨時会が26日召集され、鳩山由紀夫首相が政権交代後初めての所信表明演説をしました。この演説終了時に「スタンディングオベーション」(立ち上がった拍手を送り讃えること)が起こるという日本の国会では珍しい出来事があり、話題になっているようです。

 今の衆議院本会議場では、「腹切り問答」「粛軍演説」「吉田野坂論争」など様々は歴史的出来事が起きました。2009年10月26日の「鳩山所信表明スタンディングオベーション事件」も議事録には残らないけど、国会史に残るかも知れません。

 私は傍聴席で見ていましたが、このスタンディングオベーションは新人の斉藤進さん(静岡8区)が起こしたように見えたので、直接確認したら、やはりその通りでした。

 斉藤さんは52分間の鳩山スピーチの文脈に沿って、「よし!」「そうだ!」といったあいの手を入れていました。斉藤さんは学生時代に弁論部で活躍していました。中央大学辞達学会というサークルの代表を務めた経験があります。辞達学会は海部俊樹首相が輩出するなど政界に多くの人材が出ています。海部元首相は早大編入学後に早大雄弁会に入っています。傍聴席からかなり遠いので確認は難しいのですが、阿知波吉信さん、坂口岳洋さん、畑浩治さんら数人の新人が演説にあわせて、上手くあいの手を入れているように見受けられました。

 このため興味を持って見ていたら、所信表明終了と同時に議長から見て「右2列2番」の座席(座席番号442)斉藤議員が座席から飛び跳ね、拍手をし、そこから「ウェーブ」ができたように見えました。
 ウェーブは周辺の1年生議員に広がり、徐々に後列の中堅、ベテランの議席にも広がっていきました。中堅の国対副委員長は戸惑った顔をしながらも、ウェーブがやってきたのでしかたなさそうに立ち上がり、やがて、民主党議席全体が総立ちになりました。当たり前ですが、自民党議席は全員座ったまま、拍手もしませんでした。

 ウェーブはさらにひな壇(閣僚席)まで駆け上がり、菅副総理、岡田外相の2人の閣僚も立ち上がって拍手をしながら、鳩山首相が席に戻ってくるのを出迎えました。

 議長の真正面の座席に座っている他の新人は「自民党議員の野次がひどいなあと右を見ていたら、左からウェーブがやってきたので、思わず立ち上がらざるを得なかった」と証言しています。

 斉藤さんは先輩議員からの指示は一切ないとし、アメリカ議会の大統領教書演説で、政策項目ごとに与党議員、あるいは与野党議員が立ち上がって大統領に賛辞を送るのをみて、当然そうするものだと考えていたそうです。

 与党・民主党の新人には、国会での質問の機会や、議員立法、質問主意書の提出など「表現の自由」が制約されるのではないかと懸念しています。斉藤さんはまさに「態度」で意思を示したことになります。

 中央大学で弁論を鍛え、東京都小平市議会議員を経て、浜松市中心部の静岡8区に政治活動の拠点を移してからも徹底的な日常活動で、現職閣僚を破って初当選した政治青年が実質、国会デビュー日に衆院本会議に吹かせたフレッシュな風。

 何だか新しい日本がスタートした感じがしました。

[当ブログ内から引用おわり]

このエントリー記事の本文は以上です。