時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

鎮魂曲となった「カヴァレリア・ルスティカーナ」

2005年07月09日 | グローバル化の断面





ありし日のマルコ・ビアッジ

  2001年、9月11日の同時多発テロ事件以来、なにが起きてもおかしくない世界となってしまった。その後も世界を衝撃的な事件が襲った。そして、今回7月7日のロンドンの同時爆破テロ。たまたまロンドンに行っていた友人からのメールを読んだ直後のことであった。本人は幸い無事だったが、なんともやりきれない。

  世界が狭くなると、時に信じられないようなことも起きる。2002年3月のことであった。郵送されてきたばかりの経済誌 The Economist (March 23rd, 2002) を読んでいて、イタリアの欄に友人の写真が掲載されているのに気がついた。そして、本文を読むなり、言葉を失った。

マルコを偲んで
 記事は、イタリア、モデナ大学の労働法担当教授のマルコ・ビアッジ (Marco Biagi)が、2002年3月19日夜、ボローニャで二人の極左分子によって射殺されたことを告げていた。52歳の働き盛りで、仕事から自転車で帰宅の途上であった。労使関係・労働法研究者を中心に日本にも友人が多く、見識も広い親切で立派な人物であった。友人・知人は皆マルコを信頼していた。"The International Journal of Comparative Labour Law and Industrial Relations"の編集者でもあった。 2000 年の国際労使関係学会 (IIRA) がボローニャで開催され、マルコは開催責任者として八面六臂の活躍をした。その次の開催地は東京であったこともあり、プログラム委員長であった私はマルコに相談したことも多かった。

 ビアッジ教授は、当時ベルスコーニ首相が率いる中道右派連立内閣の福祉労働大臣の顧問として、イタリアの硬直的となった雇用法制を、時代に対応して緩和するための法案作成に力を貸していた最中であった。彼が殺害された日の新聞 Il Sole 24 Oreに、ビアッジ教授はイタリアはヨーロッパで最も硬直的な労働市場を持つ国であり、改革する以外に生き残る道はないと寄稿していた。マルコ・ビアッジは、この労働改革の原案作成にあたった最重要人物とみられたのである。

 ロイターによると、この事件のため、内務大臣はアメリカへの出張途中で引き返し、緊急議会を招集するという騒ぎになった。マルコ・ビアッジを殺害したのは、1999年にも労働法の教授で、政治家でもあったマッシモ・ダントニアを暗殺した「赤い旅団」Red Brigadesと呼ばれる極左テロリストではないかと推定されたが、決着はついていないようである。イタリア政府は国葬でその非業な死と功績を悼むことにしたが、家族は断った。マルコは帰ってこない。

ボローニャの夕べ
  マルコとは世界のさまざまな場で出会った。今、思い出すのは、ボローニャでの IIRA世界会議終了後、ボローニャ・オペラ劇場でヴェリズモ・オペラの代表作のひとつ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を共に楽しんだことである。「会議は終わった。さあ、オペラだ!」と言った時の笑顔が未だに目に浮かぶ。文字通り、劇的な生涯であった。この時以来、「カヴァレリア・ルスティカーナ」は私にとって鎮魂の曲となった。今日もあの美しくも哀しい間奏曲を聴いた。





Source: The Economist、March 23rd, 2002


旧大学HP(2002.3.21)の一部を転載・使用

Marco Biagiの業績
Marco Biagi Selected Writings, edited by Michele Tiraboschi, Kluwer, 2003
マルコ・ビアッジの追悼記念。




 

コメント
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