『仕事ばんざい ランベルト君の徒弟日記』
ランベルト バンキ (著), 小泉 和子 (編集), 中嶋 浩郎 (翻訳), パオラ ボルドリーニ (中央公論社、1992年)
中世以来、職人を養成する場としての工房の世界については、断片的には資料がないわけではない。さまざまな職業について、それぞれの国々でかなり膨大な記録が残されてきた。だが、ほとんどの記録は、徒弟から職人、そして親方にいたるまでの制度あるいは生活の叙述が主となっている。特に、私が知りたいと思うのは、画家の工房における熟練・技能の伝承、形成の過程である。未だ幼い年齢の徒弟が、工房において、使い走りやさまざまな日常の雑事に走りながら、兄弟子の職人や親方から熟練・技能の機微をどうやって教えてもらうかという部分は、ほとんど明らかではない。
たとえば、あのジョルジュ・ド・ラ・トゥールの時代には、画家を志す徒弟は、工房で顔料の選び方、調合、配色の仕方、デッサン、キャンバスの準備、下地塗りなどを、どんな時に、いかなる方法で教わったのだろうか。多少なりとも、体系だった伝承の方法が社会的に成立していたのだろうか。もし、そうであるとすれば、いつごろ、どのあたりの工房が先駆だったのだろうか。
ラ・トゥールの時代の工房についても、徒弟契約などの内容はかなり記録が残っており、徒弟の保護者や親方との契約の内容について、概略は知ることができる。しかし、それは契約上の文言にすぎない。実際の工房の日常は、ほとんど分からない。こうした中で、職種も異なり、時代もずっと新しいのだが、未だ歳も幼い徒弟が残した日記が公刊されている。しかも、日本語訳で読むことができる。とても興味をひいたのは、当の日記の筆者がフィレンツェで金具職人として現役で働いておられ、そのインタビューが含まれている点である(実は、本書は私の愛読書のひとつでもあるのだが、残念ながら今は絶版になってしまっている)。
小さな愛すべき本
この小さな本は、イタリアのフィレンツエェ市に住む金具職人であるランベルト・バンキさんが、初めて徒弟になった時にお母さんから、学校で習った字を忘れてしまわないようにといわれてつけた日記である。日記の最初に「ママが間違いをなおしたランベルト・バンキの日記」とほほえましい記述がある。実際には直されなかったそうだが。バンキさんは、1946年、13歳で小学校を卒業するとすぐに、金具職人のヴァスコ・カップッチーニさんのところに弟子入りした。そして弟子入りした1946年9月16日から、翌年の5月30日までの8ヶ月(3ヶ月病気で休んだので正味は6ヶ月)の記録である。
徒弟の日々
なによりも、興味があるのは、未だ10代の年若い少年の目線で、日々の生活が描かれていることにある。予想したとおり、親方にいわれて使い走りをしたり、掃除をしたりしながら、仕事を覚えていく徒弟の日常が伝わってくる。ヴァスコ親方は、“チェルリーニ”(16世紀の有名な金銀細工師)とあだなされていたような名人だった。
この親方の下で、バンキさんは17歳まで4年間徒弟としての修業をしていた。当時の標準的なキャリア形成のあり方だった。その間、15歳から17歳までの3年間、国立の「職人のための夜間のデザイン学校」に通った。1年目は装飾デザインやデッサンなどの基礎的な勉強で、2年目から専門のコースを選んでいる。(私も、かつてミラノにあるブレラ美術館付属の同様なコースを見学に行って、こうしたことができるのは、実にうらやましいなと思ったことがあった。)
親方の仕事を継ぐ
さて、バンキさんは17歳で学校を終えると、徒弟から一人前の職人「オペライオ」になった。そして、25歳で結婚している。これも、当時としては、職人として身を立てる普通のイメージに沿っているといえよう。職人になってからは、親方を助けて仕事をしていた。ところが、1965年にヴァスコ親方が急死してしまう。親方の息子は、すでに医者になっていたので、バンキさんが仕事と仕事場を引き継ぐことになった。そして、今やヴァンキ親方と同じように名人といわれ、文化財の修理とか、美術品の制作など難しい仕事を頼まれ、今も忙しく働いているそうだ。
大人にとってのカタルシス
日本語訳のこの本には、バンキさんの日記に挿入されている可愛らしい挿絵を含めて、仕事場や町の様子が挿絵化されて彩りを添えている。これは、一見すると、子ども向けの絵本であるかに見える。しかし、「フリーター」や「ニート」といった言葉で、難しく現実を「分析」したり「解釈」しようとする大人たちに読んでほしい仕事の世界の素朴な原点が描かれている。多少なりとも、カタルシスの役割を果たしてくれるだろう。
なによりも、感動するのは、徒弟という少年の目線で、毎日起こったことが淡々と綴られていることだ。仕事の難しさ、親方にほめられた時のうれしさなどが、感性豊かに残されている。仕事の楽しさ、厳しさ、仕事をすることの楽しみと生き甲斐――これらは、すべて現代社会において失われつつあり、その再生を求めて様々な努力も行われている内容である。「ものづくり大学」がつくられ、「13歳のハローワーク」がベストセラーになったが、そうした試みが伝えきれていない素朴なメッセージがここにはあるように思われる。
目次
1 弟子入り
2 初めての給料
3 仕事を覚える
4 小さいけが
5 白い猫
6 僕の傑作
7 夢
8 かなしいできごと
9 足ぶみ式旋盤機
10 ねずみ退治
11 お使い
12 クリスマス
13 親方の手術
14 細工場のこと
15 掃除
16 仕事になれて
(2005年7月20日記)