時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(30)

2005年07月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

アトリエの情景

ラ・トゥールは誰に師事したか:
徒弟の時代(I)
    

    ラ・トゥールの作品や画家としての人生を知ることは、ミステリーを読み解くような面白さがある。パン屋の息子ラ・トゥールは、画家を志すについて、いったい誰に師事したのだろうか。彼に天賦の才があったことは疑いもないが、画家として身を立てるにはそれなりの経路をたどらねばならないのは、当時も今も変わりはない。

画家になるには  
  16-17世紀においては、画家になるためには他の多くの職業と同様、基本的には二つの道があった。そのひとつは、画家の家に生まれ、父親なり家族の職業を継承することである。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの息子、エティエンヌは親の職業を継いで画家になったが、父親の工房(アトリエ)で仕事を体得したようだ。   
    もし、ジョルジュが父親の職業を継いでパン屋になることを志したならば、幼い頃から見よう見まねでパンの作り方を身につけ、成人してから、地元のパン屋のギルド(同業組合)で、職人あるいは親方として認められればよかった。職業によっては、どこか別の親方について、徒弟修業をすることもないわけではなかった。

徒弟を志す道   
    もうひとつの道は、すでに親方masterとして認められている人の工房へ徒弟apprenticeとして弟子入りし、絵画の技法などを身につけることである。徒弟制度はヨーロッパでは、すでに中世以来、ギルドともいわれる社会的、法的制度として確立していた。多くの伝統的職業tradeはこの制度を背景に成立していた。徒弟の時期を経て、職人journeymanとして認定されると、のれん分けのように、親方masterとして独立することもあった(蛇足ながら、ギルドとの継承性論争は別として、労働組合trade unionはその名の通り、元来職業別組合として存在した)。

社会的制度としての徒弟修業  
    そのため、徒弟になるに際しては、当時すでに弁護士がつくった規定の契約書を取り交わしている(後年、ラ・トゥールが画家としてすでに名声を得ていたと思われる1626年には、徒弟シャルル・ロワネを自分の工房へ受け入れている。その際にラ・トゥールは、彼に「誠実にそして熱心に絵画の技を教示し、教育する」ことを約束している。)職業によって異なるが、大体、小学校に相当する学校を終えた後、11-13歳くらいで(時にはもっと歳をとって)徒弟になり、3-5年の修業をした。たとえば、ラ・トゥールとほぼ同時代の有名画家ブーエVouet はパリで、ル・ブラン Le Brun は地元のタッセル Tassell で徒弟修業をしている。 徒弟の生活  画家の場合、徒弟は、親方や兄弟子のために、親方の家で使い走りのような仕事をしつつ、指示に従って顔料を挽いたり、キャンヴァスを準備したりしながら、画法を真似したり、教わったりしながら、画家としての技能を文字通り体得していった。生家が近い場合は、自宅から通うということもあったが、多くは親元を離れて、親方の家へ住み込んだ。徒弟の親は、画家の親方と契約をして息子を徒弟修業に出すわけだが、家賃や食費は決して安くはなかった。   
    徒弟の間は、賃金のたぐいは支払われない。それどころか、飲食、暖房、ベッド、部屋、光源などの費用として一定額が保護者である親から親方に支払われた、その額は当然ながら、親方の画家としての名声、評判などによって大きく異なった。また、親方の生活様式(徒弟は屋根裏のベッドか1部屋かなど)、徒弟の両親の希望、画家の経済事情などによって差異があった。このように、徒弟に出すのはかなりのお金がかかり、誰でもなれるわけではなかった。ラ・トゥールの生家は、地元では裕福な家であったと思われるから、おそらくジョルジュは徒弟修業をしたのではないか。   
    当時の職業として、画家は必ずしも喜んで選択された職業ではなかった。今日でもそうであるように、才能が大きくものをいう職業であり、生計を立てるリスクが大きかったからである。作品が社会で評価されれば、豊かで尊敬される職業ではあるが、評価されなければ画家の手伝い、下ごしらえなど、恵まれない仕事で生きなければならなかった。徒弟を終えても、画家として独立できなかった例は数多い。実際、ジョルジュの息子のエティエンヌも、父親ほどの才能・才覚に恵まれず、途中で画業を放棄し、貴族の生活に甘んじた?ようである。

画家の運命  
    家が裕福で、別に画家にならなくてもいいのに、子供が強く志望し、画家になって成功した場合もある。ラ・トゥールと同時代では、プッサン Poussin、 ドフレスノイ Du Fresnoyなどがその例とされている。たとえば、プッサンの母親は、ギリシャ、ラテン語が達者な息子が画家になりたいというのが理解できなかったらしい。プッサンは同時代で徒弟制を経由するというしきたりから外れた道を選んだほとんど唯一の画家といわれているが、これも本当にそうであったかは不明である。   
    徒弟の過程を終了し、独立の職人画家journeymanとして自立できるか否か、前途が不透明であるのは今日と同様である。他方、浮浪児のような生活をしながら、マルセイユのミッシェル・セレMichel Serreのように、才能が認められ、有名な絵描きになった例もないわけではなかった。   

    さて、われらのジョルジュはどんな道をたどったのだろうか。前回、ラ・トゥールの家系を追いかけた結果では、パン屋や石工は近くにいたが、家族・親戚の間に画家はいなかったと思われる。そのため、おそらく誰かの工房へ徒弟として弟子入りしたか、パリなどへ修業に出かけたはずである。   
    1593年に生まれ、1616年には23歳で自らが洗礼式の代父を務め、翌年には結婚した記録があることから推測すると、この頃までには明らかに画家としての修業時代は終わっているはずである。次回は、この謎に包まれた時期に接近してみたい(2005年7月13日記)。


Source: J. Tuillier, Georges de La Tour, Paris: Framannion, 1992, 1997 ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『Georges de La Tour』東京国立西洋美術館、2005(このサルモン論文も、年譜は、ほとんどテュイリエの前著によっている。) 16世紀前の中世画家の技法を継承し、研究を継承するために、The Painters and Limners Guild of LochacというGuildのサイトが今日でも運営されている。リンクはできないが、サイトは存在する http://www.sca.org.au/peyntlimeners/

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