移民船として活躍した「ぶえのすあいれす丸」
中南米日系人強制連行の記録を見て
旅行先などで、ふと見たTVや新聞で思いがけないことを知らされることがある。ふだんは、あまり集中して見ていないためかもしれない。8月12日のBS1ドキュメンタリー「祖国を奪われた人々:中南米日系人強制連行の記録」もそのひとつであった。
戦後、しばらく私の机の上には世界一周客船として南米移民にも活躍した「ぶえのすあいれす丸」(大阪商船)*の小さなガラス製の文鎮が置かれていた。竣工式の時に記念として関係者などに贈られたものであろう。叔父が私にくれたものを大事にしていたのだが、引っ越しなどの時にどこかへ紛れ込んでしまった。しかし、中南米移民の歴史についての関心はいつの間にか、私の頭のどこかに刻まれて途絶えてはいなかった。労働分野の研究を続けてきた過程で、こうした中南米日系移民に関する資料も人並み以上に読んだつもりであった。それでも、このドキュメンタリーが見事に整理し、映像化した事実の詳細は不明を恥じるが知らなかった。
ペルーから強制移動させられた日系人
第二次大戦勃発後、アメリカにおける日系人強制収容の歴史はかなり読んだ。その中には、ペルーなど中南米13カ国から2262人もの日系人がいた。彼らが西半球に対する脅威となるとのアメリカの無法な政治的意図によって、アメリカに強制的に移動させられた人々である。当時の映像をみるかぎり、まさに拉致といってよい状況である。日系人以外にも中南米に住んでいたドイツ系、イタリア系移民が連行されている。
この背景では1942年当時のアメリカ、ルーズヴェルト大統領とペルーのプラド大統領の間で密約が交わされていた。アメリカは偏見としかいいようのない反人道的動機から、そしてペルーとしては武力調達資金をアメリカから得たいがために、日系人を交渉材料としたのだ。この人道上の許し難い行為について、当時のアメリカ領事館員J.K.エマーソン氏は、深い反省の記録を残していた。
映像はこうした日系人が強制収容されたクリスタル・シティ(テキサス州)などの現状を伝えていた。記憶は時間と共に風化して行く。強制収容所の実態を研究しているアメリカ人研究者が述べたように、こうした歴史を記録し、保存することで、当時の関係者が生きていれば、それを見ることで、「(収容所の)壁自体が話し出すのだ」。
ゴアで交換された人々
さらに驚くべき事実は、大戦中に日本軍に捕虜となったアメリカ人と交換されるために、はるばるインドのゴアまで連れてこられた日系人もいた。当時のアメリカ、ハル国務長官の発案であったようだ。そして、日本への帰途、スペイン語の能力を生かした方がよいとの日本軍の指示で、フィリピンのマニラで下船させられた人々もいた。残った人々をのせた船は1943年11月14日、横浜港に入港した。しかし、当時の日本人はこの人々にも冷たかったようだ。
ペルーなどからアメリカに強制連行された日系人に、大戦後もアメリカは長らく「不法入国」という勝手な理由で市民権を与えなかった。1000人以上は日本へ送還されたが、帰国を望まず、アメリカにとどまった人々もいた。ペルーへ戻れたのは、ペルー人の配偶者などがいたわずか78人だった。
遅すぎた救済
1981年、ようやく日系アメリカ人調査委員会が設置され、戦時下の日系人に関する実態調査と補償の動きが始まった。 戦争や国家の政治対立は、人間を盲目にしてしまう。北朝鮮拉致事件も本質的に同じである。中南米日系人強制連行というこの暗い過去を、再び繰り返すことのないよう祈らずにはいられない(2005年8月11日記)