時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

名器アマティはいかにして創られたか

2005年08月17日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

18世紀初めのクレモナ

熟練・技能伝承の難しさ: 絵画とヴァイオリン 

継承されなかったラ・トゥールの画風
    中世以来の技能・熟練の伝承は、徒弟制度や工房・アトリエという経路を通したことが多い。しかし、職業によって伝承のあり方やその成否はかなり異なる。このサイトで取り上げているジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、誰の工房で修業をしたかは今のところ確認できていない。しかし、ジョルジュの息子エティエンヌは、父親の工房を継いだが、今日彼自身の作品と確認されるものは残っていない。途中で父親ほどの才能がないことをさとったのか、貴族の生活の方に魅力を感じたのか、画家として生きることをやめてしまったようである。
  結果として、ラ・トゥールの画風は、散発的にはともかくひとつの流れとしては継承されなかったといってよいだろう。とりわけ、絵画の世界では独創性や時代の求めるものへの対応も必要になってくる。この点を、ヴァイオリンの製作と対比させてみると面白い。

名器の誕生
  今年はヴァイオリンの製作史では記念すべき年といわれている。今から500年前(実際には1-2年の違いがあるかもしれないが、誰も正確な年次は分からない)、世界の最も知られたヴァイオリン工房の創設者アンドレア・アマティAndrea Amatiは、北イタリアの町クレモナに生まれた。ヴァイオリン自体は、アマティ以前から作られていた楽器であった。しかし、アマティは彼自身の独創ともいえる名器を創りだした。その後は優れた作品も生まれたが、誰もアマティのようには創れなかった。
  1577年にアンドレアは没したが、彼が設計し制作した楽器は作曲家や演奏家に力を与え、ヴァイオリン・アンサンブルを中心とする西欧音楽の流れを創り出した。

受け継がれたユニークさ
  次の200年間近く、アンドレアの灯した松明は、息子、孫、ひ孫に受け継がれた。さらに、彼の創造性はストラディヴァリ Antonio Stradivariとガルネリ Giuseppe Guarneriによっても継承された。しかし、18世紀半ばまでに、これら偉大な製作者たちの灯した光は次第に薄れていった。それにもかかわらず、この町を有名にした楽器は、時を超えて斬新さと豪華さをとどめ、演奏家や収集家によって追い求められてきた。

高額な商品と化したクレモナ・ヴァイオリン
  そして、クレモナのヴァイオリンは取引の対象としてきわめて高額なものとなった。1960年代まで、ストラディヴァリの作品は100,000ドル以下で取引されていた。1971年に、ロンドンのサザビーは名器として知られる“Lady Blunt”Stradを$200,000で売却した。2005年にはニューヨークのクリスティは “Lady Tennant”を2百万ドル以上で売却した。博物館、模造家、修復者、業者は、ストラディヴァリの価格が高騰することに大きな関心を抱いてきた。彼らは16-18世紀の間にイタリアで創られた名匠の手になる作品の価格を背後で操作もした。取引には信頼できる権威づけが必要なため、ヴァイオリンについての歴史的研究も進んだ。

次第に解明される名器の背景 
  1995年にはこうした努力が実を結んだ。ストラディヴァリの1729年の日付がついた遺書が発見されたのである。さらに、チエッサChiesaは、ミラノのヴァイオリン・メーカーで、作品の歴史的な再生に関心を持っていた。ローゼンガールドRosengardは、フィラデルフィア・オーケストラのバス奏者で、名匠の作品について歴史的関心を抱いていた。彼らの手になるモノグラフは私的にロンドンの業者ピーター・ビドルフPeter Biddulphによって印刷されたが、親方職人の投資、取引関係、家族内の関係などについて、大変優れた研究内容を含んでいた。それまでは、1902年に刊行されたHill Brothers, a legendary family of dealers が標準的な年譜とされてきた。

アメリカに生まれたヴァイオリンの博物館
  長年にわたり、ミネアポリスの楽器業者クレア・ギヴンズClaire Givensは、研究者とヴァイオリン、そして楽器に関心を持つ聴衆とを結びつける場所と機会を捜していた。その願いは、彼女がサウス・ダコタ, ヴァーミリオンの国立楽器博物館National Music Museum in Vermillion の理事に選任されたことでかなえられた。そして、ほぼアマティの生年と符号する500年後にあたる今年、記念事業として実現した。
  今年7月の独立記念日の時には、4日にわたる記念行事が行われた。行事のテーマは「偉大なクレモナのヴァイオリン製作者の作品、人生と秘密1505-1744年」であった。サウス・ダコタとクレモナの関係は偶然だが、この博物館が1980年代に入手したアマティス, ストラディヴァリウス、ガルネリの存在は、クレモナを語るにふさわしい場所とした。

名器を生んだクレモナ
  18世紀には、クレモナは富める国の富める町であった。主要な交易の通路にあたり、陸路、水路でアクセスが容易であった。そして高い品質の木材に恵まれていた。鋼鉄の道具とヴァラエティに富んだ熟練労働力もいた。そして、町の繁栄が音楽家に仕事をもたらした。それらに支えられて、アマティの工房での仕事ぶり、材料そして幾何学への関心が今日まで他をしのいできた。ロンドンのヴァイオリン製作者で歴史家でもあるジョン・ディルワースJohn Dilworthによると、アマティの考案した再利用可能なテンプレートが、当時の競争者をしのいだとのことである。
  クレモナのヴァイオリン製作は1747年に死去したストラディヴァリ、カルロ・ベルゴンジCarlo Bergonziなどの偉大な親方職人たちの作品を生き残らせた。その後も良い作品は作られているが、名器と呼ばれるものはまだない。

  こうしてみると、絵画や楽器についても、それが後世に評価される作品となるには、制作者の独創性、技能、それらを支える文化的風土など、さまざまな条件が必要であることが分かってくる。ラ・トゥールが人生の大半を過ごしたとみられるリュネヴィル、そしてロレーヌのその後の盛衰と、クレモナの歴史を重ね合わせると、いくつか考えさせるテーマが浮かんでくる。

*The Secrets, Lives and Violins of the Great Cremona Makers, 1505-1744

 Reference “Lords of the strings,”The Economist July 30th 2005

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする