年末から新年にかけて例年のことだが、過ぎゆく年と来るべき年への回顧と展望の時間が生まれる。新聞、テレビなどのメディアもこの時期はかなり集中して、大型番組を流す。
そのいくつかを見ていて、ブログではとても意を尽くせない問題だが、気になったことについてメモを書いてみたい。流行語ともなった「格差社会」にかかわる問題である。日本人と比較して、アメリカ人は格差をあまり気にしない国民であるといわれてきた。アメリカは、先進国の中で最も貧富の格差の大きい国である。しかし、格差の縮小が国民的政策課題となったことはあまりない。今は貧しくとも努力して幸運に恵まれれば、自分も成功者の仲間入りができるかもしれないという「アメリカン・ドリーム」が、まだ生きているのだろう。
取り残される人々
かつてジョン・F・ケネディ大統領が、「上げ潮になれば、ボートは皆浮かぶ」といったことがある。景気が回復すれば、失業、賃金など多くの問題は解決するという含意である。そこには、まだ幸せな時代であったアメリカの夢が端的に示されている。しかし、1995年以降、アメリカでも「ワーキング・プア」の問題が提示されるようになった。2003年時点で730万人近くが「貧困ライン」以下の所得しかないワーキング・プアに該当するともいわれる(BLS)。税控除後の所得で上位層は恩恵を受けているが、中位以下の労働者層の賃金上昇はほとんどない。
日本の安倍内閣も経済成長さえ維持できれば、経済問題の多くが解決すると思っているようだ。しかし、すでに戦後最長の経済成長という政府の発表にもかかわらず、所得格差は縮小せず、長時間労働など雇用の内容にもさしたる改善がみられない。
その中で「働き方の多様化に対応した新たな雇用ルール」を設定する動きが、新たな法律作りや改正という形をとって進行している。その中心的柱役割を担うのは、労働基準法の改正案と労働契約法案(仮称)づくりである。
目標を失った改革論議
政府側は労働政策審議会などでの検討を通して、通常国会への法案提出を目指している。個別の問題の検討は、それなりに必要である。しかし、重要なことが欠落しているのではないか。今のように個別の案件をいくら積み重ねたところで、人間らしい労働の未来像が浮かび上がるわけではない。議論がスタートした段階では、「労働契約法」の構想のように時代の流れに対応しようとの問題提起もあったが、議論が枝葉の段階に入り混迷するにしたがって、著しく形骸化している。
政府が戦後最長の景気と誇示している目前で、「格差社会」「ワーキング・プア」の問題が提起され、多くの国民が将来に不安を感じている。日本の「労働の未来図」として、いかなるイメージが描かれているのか。10年、20年、50年後の「仕事の世界」として、どんなシナリオが描けるのか。法案作成を急ぐあまり、政策の基礎となるべき理念・構想の提示がなされていない。「労働の未来」が国民に見えなくなった。「木を見て森を見ず」の弊に陥っている。「改革」の後にいかなる「仕事の世界」が待ち受けるのか、国民にはまったく見えていない。
「労働時間にしばられない自由な働き方」が検討に際して、ひとつの目標になっている。使用者そして一部の労働者にとっても、「労働力の流動化」という言葉は、耳ざわりよく響くのかもしれない。しかし、実際は企業にとって雇用調整がしやすい労働力を増やすことが主眼になっている。ビジネスの繁閑に応じて、労働投入量の調節がより自由にできることが期待されている。しかし、「流動化」は光と影を伴っている。
衰亡へのスパイラル
ひとつの例を挙げてみたい。たまたま目にしたTV番組が、岐阜県の繊維産業の実態を 映していた。1万人近い中国人研修生、実習生が月給6万円程度の安い賃金(正しくは手当)で働いている。このブログでも再三とりあげてきたが、研修生という名のチープレーバーが拡大している。こうした「偽装雇用」ともいうべき実態は今始まったことではない。かなり以前から放置されてきた。そして、年を追って事態は悪化してきた。
安い賃金で働く中国人研修生が、同じ労働市場の日本人労働者の賃金を引き下げ、労働条件を劣化させ、雇用機会を奪っている。研修生にとっても、地元の労働者にとっても、自ら望んだことではない。グローバル化の大波に翻弄されている中小企業としても、他になすすべがない。
ロボット化もできず、生産費の安い中国へも工場移転できない状況で、中国からの繊維製品に対抗するためには、中国人労働者を低賃金・雇用する以外にないという選択である。経営者を含めて誰も満足していないという恐るべき現実が展開している。このままでは、出口はなく破綻するというスパイラルが生まれている。
100年後には日本の人口は半減するとも言われるが、それほどの長期を待たずとも、すでに危機的状況が各所に生まれている。人口増と女性の労働・子育て両立化が焦点だが、それだけでは到底人口減少が作り出す問題の解決にはならない。タブー化して十分議論が尽くされていないが、移民の受け入れも決して万能薬ではない。しかし、働き手のいなくなる日本は、あらゆる分野で外国との協力、共生の経験を積み重ねていかねばならない。問題を先送りせず、しっかり国民的議論をする必要がある。移民受け入れの問題点を国民が十分認識する必要がある。長期的に予想しうる諸条件、制約の下で、いかなるシナリオが描けるのか。壊れたジグソーパズルは離散したままである。
市場主義原理での解決という言葉が空虚に響く。将来を見通した議論をすることなく、セフティ・ネットの充実もなされることなく、目先きの労働力の流動化を追求することがいかに危険か。グローバル化に対応できず、翻弄されている状況がさまざまな惨状を生んでいる。安易な言葉に押し流されず、現実を見詰め、将来図を描き直し、そこにいたるまでの道に転落を防ぐしっかりとした防護策を設定することが先決ではないか。さらに言うならば、世界のモデルとなる「人間本位の労働生活」構想を率先して掲げる誇りを持つべきではないか。それとはおよそ対極にある、次々と破綻して行く実態に絆創膏を貼り続けるようなことだけは避けてほしいと、新年の願いは例年になく重いものとなってしまった。
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「ワーキングプアII:努力すれば抜け出られるのか」2006年12月10日、NHKTV