時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

新たな「階級」論争:日本・ドイツ

2007年01月23日 | グローバル化の断面

 出所:Eurostat
「貧困率」 at-risku-of-poverty 以下の人々の比率(%) 。社会的給付移転後の可処分所得(メディアン)の60%。 人口構成調整、2003年



  「格差社会論」は、いまや日本やアメリカにとどまらず、ドイツでも盛んになりつつあるようだ。新年に送られてきたいくつかの文献を見ていたら、「ドイツよ、お前もか」という感じになってしまった。

  日本には、バブル期にみられたような「一億総中流」というおめでたいイメージはとうにない。ドイツでも健全な中産階級の国というイメージはいつの間にか消えてしまったようだ。ドイツは日本とよく比較されるが、格差論議についても似ている部分が非常に多い。資料を眺めながら感想めいたことを少し記してみたい。

  最近の日本では「格差社会」を肯定し、「ニューリッチ」の生成を誇らしげに語り、彼らを社会の活力の担い手と持ち上げる動きも高まっている。他方で、「ワーキングプア」に始まり、親子心中、高齢者の独居死など、いたましいニュースも多くなった。日本版「アンダークラス」(最下層階級)の顕在化といえるかもしれない。

  ドイツでは、グローバル化に伴う不平等の拡大は、同様に二つの議論を呼び起こした。ひとつはブルジョアの存在やその社会的評価について、もうひとつは「アンダークラス」の問題である。前者はかなり以前からくすぶってきた、後者は2005年頃に外国からの投資増加に伴う社会階層の盛衰をめぐって盛んになったようだ。

  「新ブルジョア」Neue Bűrgerlichkeit をめぐる議論は、新聞文芸欄などにみられる、やや行過ぎた知的遊戯のような様相を呈しているという。このまさにブルジョア的再生の風潮として、上等な衣服への嗜好、ラテン語の勉強、個人教授などが復活してきたことがあげられている。他方、新たなブルジョア時代の到来と積極的に評価する向きもあるようだ。

  第二次大戦後、「ブルジョア」 Bűrugerlichkeit は、ドイツ社会では居場所がなくなったとの評価が有力だった。この概念は急速に時代遅れのものとされ、1990年代初めでもブルジョアという言葉は侮辱の響きを持ったという。しかし、今日若いドイツ人はあまり抵抗感がないようだ。日本でも「ブルジョア」はいつの頃からか急速に語感が希薄になり、死語になりかけている。70年代くらいまでは頻繁に登場していた「プチ・ブル」 petit-bourgeois という言葉も、若い人にはなじみがないようだ。代わって、「ニューリッチ」が台頭してきた。対する「ニュー・プア」という言葉も目につくようになった。「階級」といういやな言葉も復活するのだろうか。

  ドイツではブルジョア論争よりは、新たなアンダークラス論の方が盛んになりそうだ。ドイツ人の8パーセント近くが、熟練度が低く、仕事もみつからず、改善の見込みがほとんどないグループだとの報告もある。グローバル化は経済的・社会的格差の収斂よりは拡大を引き起こすようだ。グローバル資本主義は人を幸福にもするが、不幸にもする。それでも「停滞」よりは良いのだろうか。

  多くの豊かな国のように、ドイツでも貧困は増大している。所得再配分後の全国メディアン(中位数)で、60%以下の可処分所得しかない人たちという尺度でみて、2004年にはドイツ人のおよそ16%は貧困者のグループに分類された。この比率は2000年と比較すると、大きな増加となる。数値自体はヨーロッパの平均くらいだが(図表参照)、ドイツの貧困率は、かつてはヨーロッパの平均を大きく下回っていた。いうまでもなく、東西ドイツ統合の影響が現れている。旧東ドイツの貧困率はイギリス型に近く、若年者と移民の間で高い。

  「アンダークラス」という言葉自体が差別的と思う人もいるが、新たな「アンダークラス」が生まれていることは事実のようだ。物質面での欠乏という問題も相変わらず深刻だが、文化的格差が拡大していることの方がいまや重要だと考える人もいる。ベルリン自由大学の歴史家ポール・ノルト Paul Norte は、今日のプロレタリアートはかつてのような上昇志向がないという。そればかりか、社会の主流から自らを隔てる生活スタイルとなっているらしい。

  こうした新階級社会論ともいうべき議論を見ていると、論点も実に多様化しており、とてもここで概括などはできない。その中で気になるのは、新しいアンダークラスの問題は、貧困それ自体でもあるが、それ以上に社会的移動、モビリティの不足にあると言う指摘である。その背景には、ドイツの教育システムが特定階層について選別的な作用を持ち、階級格差を拡大・固定化するという。

  日本の教育改革論議にもつながる論点だが、最近の日本の状況と対応は、労働改革と同様にあまりに拙速だ。教育改革案といわれる内容をみると、これまで長い間無為無策であった状況を、急に思いつきに近いような施策で修正できるのかという印象が強い。

  さて、ドイツの連立政権的状況は政党間の競争効果でプラスに働き、政党指導者を大胆な改革者に駆り立てる可能性があるとも予想されている。そうすれば、経済活性化、失業減少につながる良い結果が生まれるかもしれない。日本は連立効果も働かないとなると、どうなるのだろう。


Reference
'Class concerns,' The Economist November 11th 2006.
熊谷徹『ドイツ病に学べ』新潮社、2006年

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大学冬の時代:中国版

2007年01月23日 | グローバル化の断面

  センター入試が終わった。全入時代となっても、学生にとってはそれぞれに大きな試練の時だ。 

  中国の大学で10年以上にわたり教鞭をとられている日本人のF先生から、新春恒例のご挨拶を兼ねた「中国事情」が送られてきた。長い中国での経験に裏打ちされての観察は大変鋭く厳しいが、中国への愛も深い。現地の社会へ溶け込んで信頼を得て、はじめて知りうる情報も多く、いつも楽しみである。

  多くの話題の中から、特に大学問題についての情報は興味深い。中国の大学の数、規模はともに拡大に次ぐ拡大を続けてきて、進学率は10年前の約5%から今は20%以上になったとのこと。新卒者の数も10年前は100万人を切っていたが、今年は415万人。2007年は450万人に達する見通しで、10年間で4-5倍になるという驚くべき拡大ぶりである。

  中国の大卒者は文字通り将来が約束される「精英」(エリート)だったが、状況は一転して日本語学科や電子学科など一部を除くと、就職難時代に移行している。2001年には、85%以上だった就職率が、2005年には70%近くまで低下した。

  13億人の大人口を抱える広大な国なので、大学にしても実態を掌握することは大変難しい。しかし、清華大学を頂点に大学とは言いがたいような学校まで厳然たるピラミッド構造が出来上がっている。

  しかし、日本と同様に大学の乱造で、大卒者の初任給も低下傾向をみせ、東北地方では平均1000元。低いのは800元と、工員並みのところまで落ちている。短期間の間に大学数が爆発的に増えた裏には、国営企業の民営化に伴う失業対策としてのねらいもあったとのうがった見方も聞いたことがある。

  美国(アメリカ)留学、外資企業就職などに有利と、これまで人気の高かった英語科はどこも拡大しすぎて飽和状態となっている。それでも、地方の中学の先生なら口はあるが、目線の高い学生は敬遠して行かないらしい。

  中国教育部は、もはや精英(エリート)教育ではなく普及教育の時代に入ったとして、大学側に市場のニーズに対応した学部編成やカリキュラム改革を要請しているが、大学の対応が進んでいない。中国経済が将来成長鈍化すれば、大学生は失業予備軍化することは必至との見通しである。

  同じ話は中国人の友人からも聞かされた。このところ、中国の大学は政治問題もからみ内情はなかなか大変なようだ。大学という民主制が最も機能すべき場が、中央政府の影響力行使もあって複雑な状況に置かれているらしい。社会の動く方向を定めるについて、大学の社会的影響力が大きいからだろう。

  中国の大学市場の影響は日本にも響く。日本の大学の中には以前から日本人学生の応募が少なくなり、中国人留学生に頼っているところもかなりある。この小さな島国に1,000近い大学を乱立させてしまった日本は、今そのつけを払いつつある。アカデミアのイメージとは程遠い。日中両国ともに、大学の冬は長く続く。

コメント (2)
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