作家の恩田陸さんが、『文芸春秋』(2007年1月)の「06年、一番面白かった本」の中で、「「負け犬」「少子化」「未婚」「人を見下す若者」「国家うんぬん」などなど、最近ベストセラーになったりしたものの根底にあるのは、実はすべて労働問題だったということに気付く」と記されている。「労働問題」の定義次第とはいえ、最近、「労働」「働くこと」にかかわる問題が、きわめて増加していることだけは確かである。この意味では、もうひとつのブームとなっている教育問題も、労働に関わっている。
これは歓迎すべきことなのだろうか。労働問題が大きく取り上げられる時代は、あまり良い時代ではない。振り返ってみると、日本人の多くが、「1億総中流」という思いを、たとえ幻想に近くとも抱けた時代は、労働問題への関心は低下していた。もっとも、その「豊かさ」は、際立って物質的豊かさであったのだが。
80年代から労働組合活動への参加も少なくなり、組織率も低下の一方だった。「労働」という文字が入ると、本も売れませんよと、出版社から言われたこともある。しかし、このひと時の見かけの豊かさへの「陶酔」(ユーフォリア)は、バブル崩壊とともにもろくも崩れ去った。
人々が仕事や働き方に大きな意味を見出し、生活におけるその位置や役割を考えることは望ましいことだろう。しかし、最近の「労働」ブームはどう見てもそうではない。仕事に生きがいを見出せない、働き疲れ、格差の拡大、将来への不安など、マイナスのイメージがブームを支えている。
浅薄な制度いじりが横行し、「ホワイトカラー・エクゼンプション」に象徴されるような、働く人自身が理解できない制度が拙速に移植されようとしたり、短期的視点で全体を見失った改革フィーバーが展開している。
90年代のアメリカで労働関係の「法律の氾濫」が話題とされたことがあった。目前の変化に対応するために、次々と新たな法律が作られ、専門家でも実態がどうなっているかよく分からなくなるという現象である。「労働ビッグバン」という最近の風潮も、その危険性を多分に含んでいる。