時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ジョルジュの見た焔

2007年01月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  窯(かまど)の中に真赤に燃える炎が見える。薪を焼べる焚き口からは、妖しいまでに揺らめく焔の様子がうかがわれる。得体のしれない魔物のように、めらめらと踊り狂っている。一瞬として同じ形はない。見つめていると、魅入られたようになる。時には窯は夜を徹して焚き続けられる。

  こうした炎の姿をいつも目の辺りにする仕事は多くはない。陶芸家板谷波山(本名嘉七:1872-1963)の生涯を描いた映画を偶然に見る。学生時代、岡倉天心に思想的影響を受け、後に横山大観に続き、陶芸家としては初めて文化勲章の栄に浴した。その生涯はその作品と同じように、端正で気品とぬくもりで貫かれていた。幼い頃に見た陶磁器の美しさに惹かれ、一生を作品制作に捧げた陶芸家であった。 
  
  現代フランスを代表するの文人の一人パスカル・キニャールPascal Quinard* が記すところによれば、17世紀初めアンリIV世 の医師団の一人で名声高かったデュレ Duret は、炎は身体に良くないと思っていたようだ。この時代の医学の「常識」だったらしい。彼は暖炉の残り火を見ると、水をかけて消していた。蝋燭を見ると身震いした。これが17世紀が始まった頃、花の都パリの一情景だった。焔が燃えている部屋にいることに、医学という時代の最先端にいるこの男は耐えられなかった。
 
 
  ロレーヌのヴィック=シュル=セイユ では、同じ1600年、7歳の子供がパン屋のかまどの前に立っていた。今の時代よりはずっと大人びていたとは思われるが、彼がなにを考えていたのかは一切分からない。

  家業のパン屋を継ぐことをせずに、画家というきわめてリスクが大きく、先の見えない道を選んだジョルジュである。パン屋として父親ジャンが築いてきた信用によって、ラ・トゥール家は町では名の知られた存在であった。パン屋という職業は徒弟修業が必要であったが、家業であればその道はかなり見えていた。ジョルジュがまったく新たな職業を選択する必要はなかったはずである。

  画家ラ・トゥールの作品には、光、焔などが大きな役割を果たしていることはよく知られている。この画家の創り出した「光と闇」の世界は、時に「テネブレ」の次元にたとえられる。

 「テネブレ」Tenebrae とは、カトリックで復活祭の前の週の聖木、金、土曜日の3日間に行われる儀式である。キリストの受難と死を記念して行われる。エレミヤ書哀歌とマグダラのマリアの嘆き の歌唱が堂内に響く。赤色のローブと白色のサープリスをつけた子供が、ヘブライ語で神を意味する文字を一字ずつ消してゆく。それらを意味する蝋燭の明かりを一本ずつ消していくことで儀式は進む。すべては闇の中へと没して行く。

 バロック音楽における Tenebrae 「暗闇のレッスン」と、ラ・トゥールの絵画における蝋燭は、図らずも時代を共にする。デュレの心象風景には、テネブレが残像としてあったのだろうか。それとも医師としての経験がなにかを残していたのか。少し調べてみたい気もする。

 ラ・トゥールの作品は、夜を王国とした。内面の夜である。ジョルジュが画家となった動機がなにであったのか、謎は深い。少なくもかなりはっきりしていることは、父親が家業を継がせることなく、息子に画家の道を選ばせる決断ができたほど、ジョルジュは幼い頃から図抜けた才能のきらめきがあったに違いない。

 そして、いつの頃からか、この画家は「光と闇」について同時代の他の画家とはきわめて異なった世界を実現していた。作品の多くは、描き出された人間と画家自身の対話といってよい。その間をとりもつものが蝋燭や神秘な内面の光である。幼いジョルジュが窯の中に何を見たのか。焔の謎は深い。



Reference
パスカル.キニャールがタレマンTallemand des Réauxの言葉として記しているが、出所不明(未確認)。

Georges de la tour et quignard (français) par Quignard Pascal(Broché) , 2002.

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