Alphonse de Rambervillers, gravure de Van Loy, Bibliothèque nationale Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991
美術史の世界を眺めてみると、今日では天才といわれる画家でも在世中はその才能が認められることがなく、後世になって初めて発見・再評価された人々もかなりある。さらに、名前は記録にあっても、作品が今日まったく残っていないという画家は星の数ほどある。
いかに天賦の才があっても、同時代人がそれを発見し、育成・支援する環境に恵まれなければ、その才能は埋もれたままに終わってしまう。少なくも在世の間に認められ、花が開くことがあれば、大変な幸せというべきなのだろう。天才は異能の才であり、同時代の人とは大きく距離を隔てた才能の持ち主である。そのため、時には同時代人には理解できないこともある。
このブログで話題にすることの多い17世紀の画家たちを見ると、それぞれに喜怒哀楽、栄枯盛衰の人間ドラマがある。とりわけ、子供や若者の頃に隠れた才能を見出し、その育成のために精神的、物質的支援をしてくれるパトロンといわれる人物に出会えるか否かが、その後の人生を大きく左右する。当時の芸術家にとって大変重要なことは、彼らを支えてくれる庇護者、パトロンの確保であった。いかに才能があっても、それを開花させる基盤がなければ生活することさえ難しく、庇護者の存在が欠かせなかった時代である。
今日判明しているいくつかの例を見ると、隠れた才能を最初に見出すのは、しばしば時代の「教養人」とみられた人たちであった。たとえば、レンブラントの場合は、オラニエ公の秘書官ホイヘンスだろうか。1625年頃から総督の秘書官を勤め、ラテン語の詩の翻訳を手がけたり、デカルトと3ヶ国語で文通もしており、法学、天文学、神学も修めていた。あのリーフェンスとレンブラントにイタリア行きを勧めたが、二人とも断ったという逸話の人物でもある。当代きっての文人の勧めを断った二人も素晴らしかった。内心に秘めたる自信があったのだろう。しかし、ホイヘンスも立派で彼ら若者の才を認め、支え続けた。
ラ・トゥールの場合は、すでにこのブログに記したこともあるが、生地ヴィックの代官アルフォンス・ド・ランベルヴィリエール Alphonse de Rambervilliersがその人であった。若い隠れた才能を見出すことをひとつの生きがいとしていた、この高い精神性を持った貴族は、ロレーヌきっての美術と骨董品の収集家であった。そればかりでなく自らが詩人で画家でもあり、反宗教改革の流れの中で著名なキリスト教哲学者でもあった。
彼はジョルジュと結婚したネールの両親とも姻戚関係にあり、1617年の結婚式にも新婦側の来賓として出席している。背景は不明だが、ラ・トゥールの父親とも知人の関係でもであった。若いジョルジュの天賦の才能を見出し積極的に庇護してきたのは、このラムベルヴィリエールその人であったのではないか。
ジョルジュとネールの結婚を仲介したかもしれない。その可能性はきわめて高い。ラ・トゥールの妻となったネールの従姉妹と結婚していたこと、リュネヴィルとヴィックという離れた町の双方に通じていたこと、などからラムベルヴィリエールが若い二人の間を取り持ったのかもしれない。
ラ・トゥールの画家としての実力が次第に認められてゆくにつれて、パトロンの数も増えたことはほぼ明らかだが、最初の才能の発掘者であり、パトロンでもあったこの人物の役割はきわめて大きい。パン屋や粉屋の息子であろうと、そこに優れた才能の萌芽を見出せば、それをなんとか開花させてやろうとする志に敬服する。
アルフォンス・ド・ランベルヴィレールといえば、12世紀末までさかのぼる貴族の家系で育ち、ヴィックばかりかロレーヌきっての文化人であった。トゥールの検事で市議会委員をしていた父親の息子で、ヴィックに置かれたメッス男爵領の代官の甥でもあった。トウルーズで学んだ後、1587年ヴィックで検事になるつもりだったようだ。しかし、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた年でもある1593年7月24日、叔父の後を継ぎ、代(理)官に就任することになった。
ヴィックの町を治める指導的な人物であり、その識見、篤実な人柄で市民の尊敬の的であった。代官という政治的役割を担いながらも、詩人、学者、美術品収集家でもあった。その名はロレーヌばかりでなくパリの貴族階級の間でも知られていた。
ランベルヴィリエールは16世紀文化人の典型とも言える人物だった。学問、学芸のあらゆることに関心を持っていた。その範囲は、地理学から神学から地域の法律・慣習、築城術から楽器、ガラス彫刻、古代のメダル収集などあらゆる分野に及んでいた。美術品についてもロレーヌきっての収集家として知られていたが、自ら絵筆をとって細密画などを描いている。リュートを弾き、詩を朗詠することもあったようだ。
1600年の祭典に際してフランス王アンリ4世に献呈された『キリスト教徒の詩人による敬虔な願い』 the pious learnings of the Christian Poetは、彼自身の詩作であるばかりか、彼の細密画挿絵付きの写本であった。当時の文化水準を繁栄する最も優れた作品のひとつと評価された。ランベルヴィリエールはヴィックのコルドリエ会に、神学護教譜研究の蔵書を送ってもいる。
代官は天文学者、骨董品収集家などで、この時代の代表的教養人の一人、友人のニコラ・ド・ペイレスク Nicolas de Peirescと所蔵する骨董品の交換などもしていた。ある時、ペイレスクがジャック・カロの作品を入手したことを知って、作品を見た代官は「ペイレスクは生来の鑑識眼があるな」と誉めたという。そして、ラ・トゥールの作品も、買ったらどうかと薦めていた。
さらに、ルイ13世がラ・トゥールに、アンリIV世が与えたような恩典を付与しなかったのを知って、晩年(1621年3月27日)王の配慮の足りなさを非難する長い文書を残している。そこには、「不毛の土地を耕す教養ある人間が少ない環境を嘆いている」と記されている。
多数の美術作品を収集、所蔵しており、遺言書においても、それらが自邸の装飾の一部として構成されるよう、そして彼の美術への愛のしるしとして、自らの疲れた心を癒すために、彼が展示したままに保蔵されるよう厳しく書き記している。残念なことに、そのすべては失われた。
Reference
Paulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996
Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991