今週のNewsweek Dec.17, 2007 のトップ記事に、かつてこのブログに記したことのあるThe Kite Runner 『凧を追いかけて(仮題)』(邦訳「カイト・ランナー」佐藤耕士訳)が取り上げられていた。カーレド・ホセイニの小説(2003)が映画化され、今週からアメリカ、そしていずれ世界中で上映されることを前にしての紹介記事である。
小説の舞台であるアフガニスタンについては、ある個人的体験も重なって関心を持ってきた。カブールに関わる小説もいくつか読んできた。ホセイニの小説は、1979年のソヴィエット侵攻、オサマビン・ラディン、アメリカの武力攻勢以前のアフガニスタンを描いている。アフガニスタンは国家離散(ディアスポーラ)、今に続くタリバンの台頭と荒廃の時を迎える。かつて貧しくも心豊かで平和な時期をカブールに過ごした二人の少年の友情とその破綻、そしてほぼ30年後の姿を、戦争の悲惨と悲哀の中に描いている。ファルシー語(現代ペルシャ語)などの海賊版を除いて、すでに8百万部以上が読まれたという。
最初読んだとき、アフガニスタンの惨状を舞台としながらも、ややメロドラマ的な印象も受けたのだが、この焦土と化した国に生きる人々の人間性にあふれた姿には強い感動を受けた。深く心の底に残る一冊である。アフガニスタン。かつては輝かしい文化の栄光に溢れていた国であった。舞台に光の当たっていた時代のカブールと、暗転、瓦礫の地と化したカブールを時代を隔てて描く2都物語の趣きもある。晴れた日、カブールの大空に舞う色とりどりの凧。それにはこの国に住む人々のさまざまな思いがこめられている。
書籍としての文学作品を読んで、さらに映画化された作品まで見るということは、これまであまりない。ただ、今回の映画化について、製作者側が強調している点に多少関心を惹かれた。それは、原作著者であるホセイニがアフガン人であり、今はアメリカに住んでいること、監督のマーク・フォレスターはスイス人でやはりアメリカにいる。主演男優はエジプト人でイギリスに住んでいる。映画での俳優間の会話の多くはダーリ語(現代ペルシア語のひとつ)で行われ、英語のサブタイトルがつけられるという。興行上は英語の方が通りやすいのではないかとの見方もあったらしいが、やはり違和感をがあり、臨場感がないと判断されたらしい。
大変衝撃的なことは、この映画はアフガンでは撮影できなかったことだ。30年近い戦争で、撮影に使える場所はすべて破壊され、カブールにも当時を思い起こす建物はほとんどないという。そのため、すべてが中国で撮影された。今や、アフガニスタンの映画館はすべて破壊され、存在しない。したがって、今回、映画化されてもアフガン人はDVDの海賊版で観るしかないのだ。
制作者たちは、こうした制約はかえってアフガンに思考の次元を拘束されることなく開放し、アフガニスタンにおけるロシア、イラクにおけるアメリカ、そして他の同様な地域へと移転しうる普遍性を主張できるという。映画を観るか否かは別にして、ホセイニのこの作品は、戦争、狂信といった視点から描かれることが多いアフガニスタンに、人間という内側から迫り、もうひとつのアフガン像を提示していることだけは確かなようだ