ラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会内陣
ヴィック=シュル=セイユ
16世紀末、ロレーヌの小さな町ヴィック=シュル=セイユのパン屋の次男として生まれた息子ジョルジュは図抜けた画才を秘めていた。とはいっても、父親として10歳くらいの子供の才能を見きわめ、家業のパン屋を継がずに画家の道を選ぶことに同意することは、並大抵のことではない。パン屋の父親にその眼力があったとは到底考えがたい。当時の時代環境からすれば、父親の跡を継いでパン屋の修業をする方がはるかに確実だった。顧客がつくか全く不明な画家を志すことは大変リスクがあった。加えて、3〜4年の徒弟修業をするには、多額の投資も必要だった。
それでは、誰が幼い子供の画業の才を見出したのだろうか。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた町ヴィックには、当時ドゴス親方とブラウン親方の二つの工房があった。2人はそれぞれローカルな次元で、教会の祭壇画などの需要に対応して、活動していた。しかし、特に著名な画家というわけではなかったようだ。彼らの作品は今日まで1点も発見されていない。
そこで、浮上するのは、町の代官アルフォンス・ド・ランヴェルヴィエールという人物である。代官は17世紀の教養人のいわば象徴的存在であった。自らは神学の研究に努めるとともに細密画の才に長け、自著の挿絵なども描いていた。リュートの演奏も行い、時々は若い世代を集め、詩の朗読会なども開いていた。有望な若者の才能発掘に大きな関心を抱いていたようだ。
ランヴェルヴィリエール肖像
代官の息子はジョルジュと小学校が同級であり、ジョルジュの絵の才能は息子を通して知ったらしい。ジョルジュのデッサンも見たのではないかと思われる。そして、父親を説得し、画業の指導をドゴス親方に頼んだのだろう。代官は後にラ・トゥールの結婚に際して、リュネヴィルの貴族の娘ネールとの仲介も図ったと考えられる。社会的身分の違う2人を引き合わせたのもこの人あってのことだった。その後もジョルジュの才能に高い評価を与えていた。この人あって、ラ・トゥールの画才は花開き、その後多くの人々の心を動かす作品を生み出させた。
こうした若い人たちの隠れた才能を見出し、陰に陽に励まし、力づける人の存在は、今日の世界においても極めて重要である。今の世の中でいえば、就活における良きアドヴァイザーといえるかもしれない。新しい時代における教養人とはいかなるものだろうか。あまり注目されないテーマだが、先の見えない時代、一考してみたい。