時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

カードゲームいかさま師物語(2):ギャンブラーとしてのリシュリュー(2)

2015年02月15日 | いかさま師物語

 

Jean Warin(1607-1672)
Bust of Richelieu
1641-1643
Paris, Bibliothèque Mazarin 



 リシュリューのような歴史上の大人物の評価は、歴史家にとっても大変難しいようです。こうした人物評価は、その多くが同時代人(contemporary:その人物と同じ時代に生きた人々)の印象に基づき、後世の人々に伝承された内容、さらに史料などの記録に基づいて形作られます。このように当該人物が活動していた時代と、後世、たとえば現代(contemprary)で、評価やイメージが変化してしまうことはよくあることです。


 現代に生きる人の評価がどれだけ、当該人物が実際に生きて活動していた時代の人々の評価やイメージと一致しているかは、必ずしも定かではありません。17世紀フランス史の専門家でもないのに、こうしたコラムをあえて書くのは、この時代について関連する書籍を渉猟する間に出来上がったリシュリューやブルボン王朝の主役たちのイメージが、それまでいつの間にか思い込んでいたものとは、かなり乖離していることに気づいたことが背景にあります。

 とりわけ、リシュリューについては、彼が生きていた時代から200年近い時が過ぎて書かれた大デュマの小説『三銃士』 によって創りあげられたイメージが大変強いため、事実と虚構 fictionの間にかなり大きなバイアスが生まれていると感じられました。簡単に言えば、小説ではダルタニアン、三銃士の敵役でもあり、他方でフランスを大きく発展させようとした政治家としてのイメージが抽象されて重なり合っています。この段階でのリシュリューのイメージが、かなり小説的虚構の産物であることに改めて気づかされます。デュマのこうしたリシュリュー像を友人・知人のフランス人に尋ねたところ、意外に考えが一致しました。しかし、ひとりひとりが抱いているリシュリュー像はかなり異なる気がしました。フランス人といえども、客観的評価はなかなか難しいようです。

 こうしたことは、リシュリューに限ったことではありません。TVの大河ドラマなどを見ていて、それまで思い描いていた歴史上の人物像とはかなり異なるイメージが提示されたりして、驚かされることも少なくありません。とりわけ、映画やTVなど映像が作り出した人物像からは、こうしたバイアスが生まれやすいとされています。もちろん、映画化などされる場合には、専門的な時代考証などがなされているようですが、現代人にアッピールするよう脚色されていることも少なくありません。このブログが暗黙のうちにも設定してきた視点は、時代・空間を自由に行き来して、できるかぎり当該人物が生きていた時代の真のイメージにできうるかぎり接近してみたいということにありました。

移り変わるイメージ
 当該人物についての新しい史料の発見、歴史観の再形成などで、それまで固定化していた人物像が変わることも珍しくありません。ここで取り上げるリシュリューについては、非常に多くの伝承、史料が存在するため、大きな乖離はないと思われますが、最近の新しい研究、伝記などを見ると、それでも相当評価が変化しているように思えます。

 たとえば、ブランシャール(前回文末)の手になる最近のリシリュー伝などを読むと、これまでとは少し違ったリシュリュー像が浮かんできます。史料が丁寧に読まれており、大筋ではあまり差異はないとはいえ、これまで知らなかった新しい側面に出会い、驚いたりします。

 ともすれば、最初からフランスの宰相あるいは枢機卿として運命づけられていたかのように見られる人物ですが、その生い立ちや政治家としての上昇経路をたどると、環境の影響もかなり大きいようです。

枢機卿・宰相への道は
 元来、フランス西部の下級貴族の三男として生まれたリシュリューは1607年リュソンの司教として叙階を受け、聖職者として人生をスタートします。彼が注目される契機となったのは、1614年の全国三部会でした。トリエント公会議の定めた教会改革を強く主張し、その雄弁で当時のルイ王太子の母后で摂政のマリー・ド・メディシスや寵臣コンチーノ・コンチーニの関心を惹いたのでした。そして、マリーやコンチーニに忠実に仕え、1616年には国務卿になりました。しかし、翌年コンチーニは暗殺されてしまいます。

 リシュリューがたどった政治的キャリアを取り囲んでいた環境は、最初から残酷で見通しがつきがたいものでした。たとえば、コンチーニの暗殺を描いた当時の版画などを見ると、手足を縄で縛られ、四頭の馬で引き裂かれるという残虐至極な光景が描かれています。ヴァシーの虐殺(1562)、聖バルテルミの虐殺(1572)、アンリ四世を殺害したラヴァイヤックの処刑(1610)など、どれをとっても驚愕します。最近のIS集団の人質殺害の残酷さも、IT上で放映するなど言語に絶するものですが、17世紀フランスにおいてもすさまじいものでした。

「母子戦争」の背景
 さらに、後のルイ13世と母后で摂政のマリー・ド・メディシスの間の確執、「母子戦争」もきわめて異様に感じます。マリーは想像しがたいほどの権力欲にとりつかれ、猜疑心も強い女性でした。他方、息子である王太子ルイも、精神的に不安定な若者であったようです。

 1618年の母子の争いの時は、ルイはリシュリューを信用せずに罷免し、アヴィニオンに蟄居させました。しかし、リシュリューはどこで身につけたのか、巧みな説得力で、母子の争いを仲介し、その後ルイ13世の最も重要な相談相手となります。1621年国王の信頼していたリュイヌ公が死去すると、リシュリューは王が最も頼りにする人物となり、翌年には王と教皇から枢機卿に任命、叙階されるまでになります。

 ルイ13世は、その性格はかなり頑固でありながら、移り気で、複雑な性格の持ち主であったようです。それは、ひとつには王といえども油断すれば暗殺されかねない危険な宮廷内部の環境、国内外のいたるところで勃発する反乱や戦争、そしてなによりも好んでいた狩に熱中しすぎて疲れ果てていたようです。そうした王を時には諫め、叱責できる人物として、リシュリューは存在しました。その過程でマリーは、かつては自ら取り立てたリシュリューと激しく対決するようになります。

「騙されし者の日」
 1630年11月11日、マリーは王の前で枢機卿にその怒りを爆発させました。そして、リシュリューに王の前でひれ伏し、絶対服従するように命じました。彼女のみならず、並み居る宮廷人たちもこれでリシュリューの時代は完全に終ったと思ったようです。王は一言も発せず、黙って立ち去ったと伝えられています。その夕べ、王はリシュリューをヴェルサイユの狩猟小屋に呼び、リシュリューは王の命じるところに従いました。いかなる話が両者の間にあったのか、興味津々ですが、概略の伝承があるようです。他方、マリーや反リシュリューの貴族たちは勝利を確信したのです。しかし、結果は彼らにとって「騙されし者の日」と呼ばれる予想外の屈辱・敗北の日となります。マリー・ド・メディシスは息子である王から追放され、コンピエーニュ城に軟禁されましたが、半年後に脱出、亡命先のブリュッセルに向かい、最後は1642年ケルンで死去するまでフランスの地を踏むことはありませんでした。


 王を介してフランスを統治したといわれるリシュリューでしたが、二人の関係は切れることなく続きました。しかし、その関係はこれまた微妙きわまりないものであったといわれます。リシュリューが病死した1642年になって、ルイ13世はリシュリューに「私はあなたを愛したことはなかった。ただ、別れるには長すぎるほど一緒にいた」という意味の手紙を書けるまでになったといわれています(実に意味深長な言葉です)。そしてルイ13世も、宰相の死後半年ほどして、1643年5月に没しています。この二人がお互いに抱いていた心の内は、もとより推測するしかありません。ただ、リシュリューがその死の直前、自らの後継者として推したマザランについて、ルイ13世が別の人物を選ばなかったことなどを考えると、王はリシュリューの能力について、ある信頼を置いていたこともほぼ確かではなかったかと思われます。

 最近の外交評論などで、リシュリューは、フランスを将来偉大な国家とする制度的な構想や具体策は持っていなかったとの論調が注目されるようになっています。しかし、それに代わって生まれている新たな評価も大変興味深いものがあります。

続く 






Reference

Jean-Vincent Blanchard, Eminence:Cardinal Richelieu and the Rise of France, New York: Walker & Company, 2012.

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