Michel Lasne (After Charles Le Brun)
Caen About 1589-Paris 1667
Thesis of Jean Ruzé d'Effiat, engraved by Michel Lane
and dedicated to Cardinal Richelieu (details)
1642
Egraving
123.9 x 72.6cm(three sheets joined)
Paris, Bibliothèque nationale de France
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リシュリューは大変肖像(画)を好んだようで、きわめて多数の作品が残っています。
リシュリューの生涯は57歳で終わりを告げました。そして彼が仕えたフランス王ルイ13世(実際はリシュリューに使われていた?)は41歳で没しています。今日の世界の寿命水準からみると、二人共に大変若くして亡くなっています。リシュリューの場合は、晩年胃潰瘍に苦しんでいたとの推測もあり、さもありなんと思わせる多忙、多難な生涯でした。強靱な意志を持った宰相のように思われますが、その内面は常に大きな課題に悩み抜く日々であったのでしょう。
他方、ルイ13世については、正確な死因は不明ですが、不規則な食事による体調不安定、結核などが挙げられています。リシュリューが亡くなってからわずか5ヶ月後の1643年5月14日に世を去っています。あまりに短い人生でした。リシュリューとの関係は、前回に記した通りですが、それまで母親よりも信頼し続けてきた相談相手がいなくなってしまい、精神的にも負担が大きくなったことは推測できます。息子であるルイ14世(76歳で死去)と比較すると、この王については、必ずしも実態が知られていないのですが、Louis XIII, The Justと言われるようになったことからも、公正な判断ができる能力の持ち主と国民からは思われていたのでしょう。この王について記したいことはかなりあるのですが、その時間は残念ながらありません。
多難な時代の宰相
いずれにせよ、リシュリューの活躍した17世紀前半は、今日の世界と似ていて、いたるところで紛争、戦争が絶えませんでした。フランスといえども、国家の枠組みは脆弱で、国境の周辺では戦争が次々と起こり、国内では絶え間なく起きる貴族たちの謀反、ユグノーや農民の反乱などで騒然としていました。この時代の歴史書を繰ると、フランスの貴族は謀反、反乱が大変好きだったことが、よく分かります。政権側も大変脆弱でした。
こうした日々を過ごしたリシュリューにとって、その生涯は決して平穏、無事に宮廷人として華麗な生活を過ごしていたとは考えられません。信頼できる数少ない相談相手とともに、山積する難題に日夜取り組んでいたというのが、現実だったのでしょう。
王政については、前回記した1630年11月11日の「欺かれし者の日」を転機に、国王ルイ13世のリシュリューへの支持は(内心の好き嫌いは別として)確たるものとなり、その後揺らぐことなく続いたようです。母后マリー・ド・メディシスと息子であるルイ13世の間の不信と確執は執拗に続いていましたが、この日は決定的な日となりました。母親であっても、冷酷に縁を切ってしまうという「母子戦争」のすさまじさは、小説の域をはるかに超えています。
この歴史的な1日の後、母后と国王の関係を利用しようとした貴族たちの反乱も収束に向かいました。唯一大きな反乱は、1632年のモンモランシー公アンリ2世の反乱でした。リシュリューは反乱に加担した者たちを徹底的に弾圧し、モンモランシー公も捕らえられ、処刑されました。この11月11日を機に、王とリシュリューの執政上の信頼関係は一段と深まっていたと思われます。
現実的な思考
リシュリューは、国益の維持のためには、かつての敵国側と同盟関係を結ぶなど、節操を問われるような動きも辞さずに行っています。その意味でもきわめて現実的な思考の持ち主だったと思われます。
ただ、後世の人間の目でみると、リシュリューの政治思考と対応は、自らの政治生命を危うくする可能性を多分に含んでもいました。1618年には30年戦争が勃発しました。ヨーロッパ宗教戦争の最後の痙攣ともいうべきものでした。プロテスタント諸国とハプスブルク家側のカトリック同盟諸国が大陸を引き裂いて戦ったのです。カトリック国であるはずのフランスは、プロテスタント側として戦争に加わりました。リシュリューとルイ13世が最も配慮した点は、オーストリアとスペインのハプスブルグ家が、フランスを抜いてヨーロッパの最強勢力となることを防ぐことにありました。その点には国教を維持すること以上に重きがおかれていたのです。
これらのことを含めて、リシュリューの晩年には、教皇ウルバヌス8世を含む多くの人々との不和も高まっていました。しかし、1641年には腹心のジュール・マザランを教皇が叙階したことで、多少の関係改善がなされました。ローマ・カトリック教会との紛争は絶えなかったのですが、リシュリューは教皇の権威をフランスから完全に排除せよとのガリカニスト(フランス教会至上主義)の主張には組みしませんでした。リシュリューには、現実主義者として、かなり強い政治的バランス感覚が備わっていたと思われます。そのために、リシュリューは国内外に強力な情報網を維持しており、貴族などの陰謀、謀反などの企みを的確に掌握していました。
評価されなかったリシュリューの政治姿勢
今日まで多くの政治家や政治学者は、リシュリューの政治思想や方向を古典的としてあまり評価してきませんでした。さらに、リシュリューのような即事的な対応は、現代世界の状況には合わないと考えてきました。政治家は大きな理想をもって、国家の将来を構想、設計し、その路線の上で政治的実務を行うべきであるという考えです。
しかし、ルイ13世とリシュリューの時代をつぶさに見ると、その短い生涯の間によくこれだけの出来事に対応し、しかもかなりの大仕事をなしとげていることに感心させられます。政治、外交のみならず、文化の点においても、パリを中心にその後のフランス文化発展の礎石を築きました。
フランスの長期の発展におけるリシュリューの役割は、史料記録の上では必ずしも明瞭ではありません。最大のライヴァルであったハプスブルグ、オーストリアとスペインに勝利しました。しかし、恐らく目指していた部分的な統合もできませんでした。地方長官を配置することで、税収入を大きく増やし、30年戦争に勝利することはできました。しかし、その過程で農民や地方の領主たちを圧迫し、一連の反乱を引き起こしてもいます。恒久的な新たな行政システムを構想、設計し、実施することはできませんでした。それでもリシュリュー最後の6年間、フランスはヨーロッパの主導的国家になっていました。
その本格的な仕事は、次の君主であるルイ14世とジャン–バプティスト-コルベールに委ねられました。彼らはフランスの近代の国境の輪郭を定めることに成功しています。地方領主や貴族との関係を改善し、より多くの税収をあげています。リシュリューの時代の地方長官を中央政府が頼りとする行政の手としています。
現代の政治・外交につながる問題
リシュリューの政治・外交が近年見直されているのは、現代の政治もミュンヘン協定、キューバ危機、そしてアフガニスタン侵攻、さらには今日のギリシャ、ウクライナ問題、IS組織への対応などを含めて、決して確たる将来展望の下に個々の対応がなされてきたわけではないという点にあります。リシュリューは当時の王政を支える人材などにおいても、現代とは異なり、きわめて限られた状況で、しばしば緊迫した政治・外交の判断、実行を行っていました。それは見ようによっては、のるかそるかのギャンブラー的行動ともいえます。しかし、この図抜けた政治家は、あたかもポーカー・ゲームの勝れたプレーヤーのように、短期的な視野と判断において大きな誤りをすることなく、次の世代が負うべき課題の布石を打ったといえるでしょう。
Reference
Porker Lessons From Richelieu: A Portrait of the Statesman as Gambler, by David A.Bell, FOREIGN AFFAIRS, March/April 2012