時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

絵の裏が面白いラ.トゥール(1)

2018年10月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

The New Bornchild
Museé des Beaux-Arts, Rennes

 

ラ・トゥールの世界へ立ち戻る
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは作品の裏が面白い。ブログ筆者の作業場にはここ10年くらい、『生誕』のポスターが掛かっている。精緻に印刷されたコピーに額縁をつけただけである。コピーはかつてレンヌの美術館で求めたものであり、額縁の方がはるかに高い。その前は、ルーブルの特別展で求めた『大工聖ヨセフ』『イレーヌに介抱される聖セバスチアヌス』などが掛けられていた。

このところ、ラ・トゥールの記事が減りましたねと言われた。確かにそうなのだが、トピックスには事欠かない。この画家だけでもさらに10年は記事を続けないと尽くせないと思うときもある。なにしろ、これまで半世紀近くおつき合いしてきたのだから。しかし、人生にブラックアウトの時は迫っている。少しだけ記してみたい。

ラ・トゥールの作品『生誕』については、以前にも記したことがあるが、描かれているのは世界一可愛いと言われる赤ん坊がおくるみに包まれ、母親と思われる女性に抱かれ、もう一人祖母と考えられる女性と共に描かれている。赤ん坊を抱く若い女性の顔は俯き、なんとなく憂いのような表情が見てとれる。新しい生命の誕生を手放しで喜んでいるわけではなさそうだ。背景にも何も描かれていない。この画家は自らが伝達したいと考える必要最小限しか描かない。ほぼ同時代ながら、なんでも描きこんであるフェルメールとは対照的だ。画家が活動した政治・経済、文化的背景が全く異なっていた。

折しも東京では『ルーベンス展』『フェルメール展』と次々に17世紀美術の企画展が予定されている。ラ・トゥールと比較して活動時期は前後するが、ほぼ同時代の画家である。しかし、フェルメールだけを見ていただけでは、この時代、17世紀ヨーロッパは分からない。当時、ヨーロッパの多くの地域は戦乱や疫病、飢饉などに苦しむ「危機の時代」の最中であった。

モナ・リザはここにもあった
この作品、今やレンヌ美術館が手放さない「モナ・リザ」(Coisbee)といわれる。そして、ラ・トゥールの他の作品と同様、多くの論争の的となって来た。そのひとつは画家がこの作品で、何を描こうとしたのかという点だ。幼いイエスと聖母マリアではないか、と思うのはやや早計だ。そこには当時の宗教画に特有のアトリビュートらしきものは格別描きこまれていない。画家は画題を記すことはほとんどなかった。しばしば署名さえしていない。画家と顧客あるいは観る者の間に、画家が描いたものについての暗黙の了解が成立していたからだ。作品の所有者は、教会、修道院などの宗教関連、あるいは個人である。美術館など無い時代である。しかし、その当時から400年近くも経過した現代では、画家の意図と画題との間に乖離も生まれる。

ひとつの見方は、画家が抱く宗教的イメージを世俗の設定の下に描いたという想定である。幼きイエスを抱く聖母マリアと聖アンヌが想定されている。他方、当時の普通の幼い子供、母、祖母を美しく描くことが、画家の目指したことであり、そこに聖性を感じるのは観る者次第であるという解釈もできる。ラ・トゥールの熱心な愛好者であったオルダス・ハクスレイは、画家の制作意図についての疑問は重要ではないと述べたことがあった。「ラ・トゥールのアートが全く宗教性を欠いているとしても、それはきわめて宗教的であり、比類ない強さをもって聖性を発現しているという限りで、宗教的なのだ」という趣旨のことを述べたことがあった。

この画家は天使の翼や聖人の頭上の光輪(ハロー)を描くことなく、観る人にとっては宗教画以上の宗教性を感じさせる。その非凡な力量は、時代を超えて、同じ作品を毎日観ていても、多くのことを考えさせる秘めたる力を画面から感じさせる。

 

 

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