昨年末、NHK「ストレンジャー 上海の芥川龍之介」(12月30日NHK)を見た折、その下敷きとなった、この鬼才とも言われる作家の作品『上海遊記』を読み直してみたいと思った。実はこの作品、ブログ筆者が初めて上海を訪れたほとんど半世紀前にも読んだ記憶があった。しかし、当時はそれほど強い印象を得たわけではなかった。芥川の作品には短編が多いが、この作品も長さは中程度であり、小説というよりは紀行文に分類されるものである。芥川は『大阪毎日新聞』の海外特派員として大正10年(1921年)3月28日、門司から、上海を訪れ、3週間ほど滞在し、その後中国各地を旅している。
今回読みなおしてみると、想像した以上に順調に読むことができた。芥川は31歳、すでに作家として令名を馳せていただけに、自信に溢れた筆致で書き進められている。今日読むと、旧字体の漢字に悩むかもしれないが、ほぼ問題なく読み切れた。この上海への旅は、最初から芥川は体調が悪く、風邪をこじらせ、気管支加答児が全治しないままに日程を延期したり、上海でも里見医院へ乾性肋膜炎の診断で入院したりしている。そして、帰国後しばらくして昭和2年7月23日夜半には、体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺をするという心身ともに下降し始める時期であった。不眠に悩み、里見医院へ入院中にも医師には内証で毎晩欠かさずカルモチンを呑んでいた。それでも特派員という責任感からか、当時の上海に見たまま、感じたままを生き生きと伝えている。
それにしても、この時、芥川龍之介は31歳。漢籍を含め、その知的蓄積、博識に感嘆する。ちなみに、芥川は東京帝国大学文科大学英文学科の卒業であった。
『上海遊記』は漢字、仮名遣いなどが今日とは異なるが、大きな問題なく読むことができるのではないだろうか。
それでも、ひとつクイズ?を記しておこう。『上海遊記』に次のような記述がある。
以下、引用
上海の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子〔まるテエブル〕。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。ーーー卓子を圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。
「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」
「いえ、あれは惡作です。」
私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。
引用終了。
当意即妙、なかなか興味深い対応である。宇野浩二 (1891年〜1961年 )は芥川と年齢もひとつ違いの盟友であり、この応答をどう受け取ったのだろうか。 『鴉』は自明の通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説である。或る夫人が誤ったのは、大正10(1921)年4月1日発行の『中央公論』で、この宇野浩二の「鴉」の後に,、芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう。ところで、この「鴉」とは、なんでしょうか。直ちにお分かりの方には大いなる敬意を表したい(答は本ブログ文末)。
『上海遊記』に描写されている上海は、古い時代の情景が至る所に残っているが、それらが今は全て消え失せているわけではない。今日の上海は、東京を上回るほど活気があり、表向きは近代化しているが、街の裏側に回れば、あちこちに芥川が感じた当時の古い上海の名残りが残っている。
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鴉、 烏 共にカラスと読む。
スズメ目カラス科カラス属およびそれに近縁の鳥の総称。日本では主としてハシブトガラスとハシボソガラスの2種。雌雄同色、黒くて光沢がある。多くは人家のある所にすみ雑食性。秋・冬には集団で就眠。古来、熊野の神の使いとして知られ、また、その鳴き声は不吉なものとされる。ヒモスドリ。万葉集(14)「ーとふ大をそ烏の真実(まさで)にも」
「広辞苑」第6版。