ケンブリッジの夏のある日
文字通り酷熱、酷暑の8月。お盆休みで帰省の大きな流れが動き出した。今年はいつになく、多くの友人・知人と永遠の別れがあった。それぞれに興味尽きない人生の出会いがあったことを思い起こさせる。
7月、イギリスから一通の訃報が入った。長年の友人W.Bとの別れだった。ケンブリッジの自宅での突然死だった。W.B.はケンブリッジ大学ダーウイン・コレッジのマスター(学寮長)やケンブリッジ大学全体の副学長(教育・研究担当)、多くの大学の評議員、学会、政府のアドヴァイザーなど多数の要職を務め、引退の途上だったが、まだ多くの仕事をしていた。
ダーウイン・コレッジ小景
W.B. 愛称ウイリーとの出会いは、偶然だった。若い頃、ある国際会議の席で隣り合わせた。彼はすでに立派な業績を残していた研究者だった。会議は概して退屈だった。しかし、彼はなにか一心にノートに書き込んでいた。イギリスの優れた研究者はこういうものかと感心して、つまらない講演を見つめていた。しばらくして、彼が見せてくれたのは、なんと退屈な発表者のカリカチュア(戯画)だった。なかなかうまく描けていた。会議の後で、”大人の暇つぶし” an adult’s pastime! といたずらっぽく笑っていた。
その後、あちこちの会議などで出会うようになり、ウマが合うというか、急速に親しくなった。後年、彼が名誉フェローであったウルフソン・コレッジに客員として招聘もしてくれた。ここで筆者が学んだことの一つは、アングロサクソンといっても、アメリカとイギリスでは研究者へとしての教育の考えも、現実の仕組みも大きく異なるという点であった。アメリカでは学問の土台構築の方法などを厳しく仕込まれたが、イギリスでは個人の想像力発揮を促進するよう緩やかな枠組みが準備されていた。幸いにも両者を体験しえた筆者は、教育のあり方について実に多くのことを学んだ。
度々訪れたボートハウス小景
ウイリーからは日本人の友人以上に学んだこともあった。筆者も一端を担い、東京で開催した国際会議などに際しても、その力量と人脈を生かして最大限の支援をしてくれた。引退後も多くの仕事を続けていたが、その中には 地方行政区(Parish Council)の区長まで含まれていた。世界の実態から地域への貢献まで、彼の視野と活動は想像を超えていた。
最近は、BREXITを含む世界の荒廃を嘆いていたが、今は天国で誰かのカリカチュアを描いて楽しんでいることだろう。
今年、旅立たれた友人・知人(W.B.を知る人も多い)を含めて、心からご冥福を祈りたい。
☆ 筆者が初めて到着の挨拶に行った時、W.B. の研究室には、下掲のターナーのポスターが架けられていた。同時期、筆者の部屋にも同じものをかけていた。不思議な因縁を感じる。
《平和 ー 海の埋葬》
Peace - Burial at Sea 1842年頃
87×86.5cm, 油彩・画布, テート・ギャラリー(ロンドン)