現在のナンシー、スタニスラス広場夜景
なぜ、17世紀のヨーロッパの小国の、それも下級貴族の話などを延々と書いているのかと思われよう。だが、ここで記していることは、実はきわめてわずかな部分である。実は書き出したらきりがない話になってしまう。ロレーヌ公国という小さな世界に生きた画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの世界の一部を追体験・推理してみたいと思う管理人のメモ書きにすぎない。だが、少しでも細部にこだわると、深入りして出てこられなくなってしまう。細部に入るほどに面白くなるのだが、ブログでは到底持ちこたえられない。
これまで、シリーズで記してきたことは、この地域がロレーヌ公国(公爵領)という形を取り始めて100年余が経過した頃(1599年)、公国の下級貴族という地位にたどりついたマウエ家というひとつの家系が、その後公国がたどった盛衰の中で、いかに生き延びたかという処世術の筋書きのようなものである。それも、きわめて圧縮している。
その後、ロレーヌ公は、ニコラ・フランソワ(シャルルⅣ世の弟)、シャルルV世、レオポルドⅠ世、フランソワⅢ世と代替わりするが、いずれも亡命その他でほとんど公国の首都ナンシーの公座には就くことなく、時が経過し、ついに、ロレーヌ公国終焉の年、1737年がやってくる。
ポーランド継承戦争とロレーヌ公国の終焉
この間、1733年、フランスと神聖ローマの間に、ポーランド継承戦争が勃発した。ロレーヌの独立性を保持したいと思う口レーヌ人は多かったが、ブルボン朝ルイ1 5世の強大な権力と軍事力のために実現しなかった。