見えない「国民の姿」
移民(外国人)労働者問題は、とどのつまり彼らを自分たちの隣人として認めうるかというところに行き着く。隣人といっても、生い立ちの違いは当然のことだが、先住の国民とは生活の仕方、考えも異なる。信じる神も違うかもしれない。どこまでの違いなら、隣人としてやってゆくことができるだろうか。移民受け入れのあり方は、その国の身の丈を反映している。
日本でも定住外国人の参政権問題が議論に上ってはいるが、およそ国民的議論の次元には達していない。多くの国民は外国人の参政権付与にかかわる論点など、ほとんど知ることなく過ごしている。新政権成立後、政治家と金という低次な問題に多くの時間をとられ、景気回復・財政再建、雇用創出、社会保障など、山積する重要課題に割かれる時間はきわめて少なくなっている。
最も前を歩む国フランス:
最近、サルコジ大統領が「フランス人とは何か」という問題提起をして大きな論争を引き起こしている。多くのメディアが論争を伝えている。支持率低迷が伝えられるサルコジ大統領が、ナショナリズムを高揚させ、国民の結束を強めることを狙った演出ともいわれているが、思わぬ逆効果も出ているようだ。
フランスでは毎年10万人以上の外国人がフランス国籍を取得している。先進国の中ではかなり開放的なイメージがもたれる国だが、現実は厳しい。フランスにおける定住経験、2年以上にわたるさまざまな審査を経てのことである。フランスの理想である自由・平等・博愛の精神に沿って、この国の価値観の尊重が求められる。フランス語の習得もそのひとつだ。
イスラム文化との対決
そして今日の移民問題の最大課題は、イスラム文化への対応だ。フランスはヨーロッパ・モスレムの拠点になっている。フランスでは1994年以降、世俗的な生活における宗教的シンボルを削りとる動きが強まってきた。最初はモスレム伝統のヘッドスカーフの公立学校での禁止から始まった。10年後には、公立校、公的建物でのこれみよがしにみえる宗教シンボルの誇示を禁止した。さらに、今年3月には、ブルカburqa(イスラム強国の女性が着る、頭から足首まで覆うゆるやかな外衣。目の部分だけをスリットで開けている)を街路などを含む公的な場所で着用することの禁止が提示されることになっている。抵抗すると罰金750ユーロ(1090ドル)が科せられる。
ブルカについては、サルコジ大統領も昨年「フランスの土壌にそぐわない」と発言している。 フランスではおよそ2000人近いイスラム女性がブルカを着用しているといわれる。全体からみればその数は少ないが、なぜ問題にされるのか。ちなみに、フランスでは2004年法でブルカは公立学校、身分証明書では着用禁止となっている。
それは、歴代フランス政府が目指している(1)国家と宗教の分離、(2)明白な宗教的シンボルの誇示を拒否する、という2点にかかわっていると思われる。とりわけサルコジ大統領は、宗教それ自体を禁止はしないが、慎ましく思慮分別をもって信仰に対せよと述べている。いいかえると、宗教を私的領域に限定しようとする動きともいえる。他方、世界にはロシアのように、国家とロシア正教の関係が復活する動きもある。
ブルカは牢獄?
当然、イスラム教徒の側からはフランス政府の政策は宗教的弾圧ではないかとの反発も起きる。昨年、サルコジ大統領は「ブルカは宗教的サインとは考えない。そうではなくて女性の従属、蔑視のシンボルだ」との趣旨の発言もしている。サルコジ内閣でモスレムの大臣フェデラ・アマラは、ブルカは「牢獄」と発言したこともある。
あるフランスのモスレム研究者によると、今日ブルカやニカブを着用している女性はほとんどが40歳以下の若い女性であり、そのうち3分の2は2世代あるいは3世代目だ。そして、4分の1ちかくは改宗者だ。いいかえると、彼女たちの母親たちはブルカを来ていなかった。
西欧各国の首脳も宗教についての発言は微妙だ。2009年、オバマ大統領はカイロで西欧社会はモスレム市民への宗教的干渉を防がねばならないと発言している。たとえば、モスレム女性がなにを着用すべきかという点に国家は強制を加えるべきではないとしている。
このたびのサルコジ大統領の政策で、新たな移民論争が始まる気配もある。フランスには移民・同化・国家アイデンティティ省という、移民・外国人労働者問題に対処する省庁が設置され、問題の対応へ当たっている。
他方、日本のように移民・外国人労働者問題を国民的議論にしないように、成り行き任せにしている国もある。難しい問題は先延ばしというのは、この国のお得意だ。しかし、世界における日本のイメージは改善されることはない。なにを考えているのか分からない、国としての存在感がない。
確かに「フランス人とはなにか」という大命題を、サルコジ大統領のような形で国民に突きつけるのは乱暴で、イスラム文化への恐怖という「パンドラの箱」を開けてしまったという論評もある。しかし、フランスという国は、その手法の善し悪しは別として、こうした議論を繰り返し重ねることを通して、その革新性、独自性を誇示してきた。フランスという国がいかなる方向を目指し、国民として包括する対象がどのようなものであるかを、絶えず国民の議論の場にさらしている。
他方、この国日本ではほとんど実のある議論はされることなく、いたずらに時間だけが過ぎて行く。国民の大多数が知らない間に、出入国管理などの法制も塗りかえられてゆく。黒白を争うことをできるだけ回避する国民性なのだろうか。国民にとっても「日本人とはなにか」が見えにくい国だ。外国からみると、頭巾で深く顔を覆った「顔の見えない国」であるのかもしれないと思う。50年後の日本「国民」とはいかなるものになっているか、彼方の世界で見ることになろう。
References
Economist.com/audiovideo/europe
2010年2月5日 衛星第2 「フランス人とは」
“The war of French dressing” The Economist January 16th 2010