David Parrott, RICHELIEU'S ARMY, cover
アレクサンドル・デュマの「3銃士」をもう一度読む、できれば映画としてヴィジュアル化された形でも観てみたいと思った背景には、ある期待があった(今回の試みはその期待に応えてくれなかったが)。こうした歴史にかかわる映画は、その後の研究が進み、さまざまな面で時代考証が加えられているために、時に活字だけの原作に頼るよりは、収穫が大きいことがある。そのひとつの例は、最近見た映画『鉄の女ミセス・サッチャー』にもあてはまった。少し前に刊行された自叙伝 John Campbell. The Iron Lady を読んでいたこともあって、次第に記憶から薄れつつあった現代史上の激動の時代への印象が強く甦ってきた。
「同時代人」の目で
このブログが右往左往しながらも、取り上げている17世紀フランスあるいはロレーヌ公国の世界は、まさに宰相・枢機卿リシュリューとルイ13世、そしてその後を継いだマザランとルイ14世が主要な歴史的人物として登場してくるヨーロッパ史の壮大な舞台であった。できうるかぎり、「その時代に生きた」(コンテンポラリーな)人が体験あるいは見聞した内容に近い環境(情報)で、この舞台を眺めてみたいというのが、本ブログ管理人の基本的スタンスなのだ。ラ・トゥールなどロレーヌの画家たちも、フランス王国とハプスブルグ家、神聖ローマ帝国、スペインなど大国に押しつぶされそうな小国で、歴史の波乱に翻弄されながらも生きていた。
とりわけ、当時の中央ヨーロッパの実態を理解するについては、フランス、神聖ローマ帝国、スペインなど、大国の間に繰り広げられた幾多の戦争の実態への接近が不可欠に思われる。特に強大な神聖ローマ、ハプスブルグ家に対するフランスの対応が、きわめて大きな意味を持った。
特にルイ13世の下で重用され、王をはるかに凌駕する政治力を発揮していた宰相リシュリュー(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585年9月9日 - 1642年12月4日)の抱いていたといわれる世界観、構想とそれを実現するためのひとつの重要な手段である軍事力についての考え方を理解することが欠かせないと考えてきた。それは現実にはどの程度の計画性、現実性を持っていたのだろうか。リシュリューは枢機卿としてカトリック教会の聖職者であると同時に、フランス王国の政治家であった。1624年から1642年に死去するまで、ルイ13世の宰相を務めた。その権力は、王を介在してフランスを支配したといわれている。しかし、リシュリュー自身、その生涯において度々政治生命、そして自らの命を失いかねない危機に対していた。
「政治宣言」の本質
リシュリューは、すでにこのブログでも一端を記したように、新大陸までを版図に含めた世界構想を持っていたといわれる。ヨーロッパの他の大国と争いつつ、その構想を実現するには、それを支える強力な軍事力、統率力、財政基盤などの支援が不可欠だった。
この稀代の政略家、宰相リシュリューは自ら『政治宣言』 Testament Politiqueともいうべき構想において、自国フランスの持つ大きな問題を認識していた。彼は「地球上でフランスほど戦争に対応する力を備えていない国はない」と自国の抱えるさまざまな不安定さや気まぐれを批判している。このように自らが自国の軍事的弱点を自覚しつつも、「リシュリューの時代」ともいわれる、文字通り画期的な時期を築き上げた。1624-42年の間における図抜けた戦略家リシュリューの行動は大きな関心事となる。実際、この時代におけるリシュリューの行動範囲を追っただけでも、驚嘆に値する。しかし、リシュリューの構想なるものは、どれだけ計画的に考えられ、将来を見通したものだったのだろうか。
内部に重大な欠陥を抱えるフランス軍を指揮し、しばしば自ら戦場に赴き、そして時には教会や大貴族たち、そして最終的にはルイ13世の母后マリー・ド・メディシスから厳しく批判、攻撃されながらも、合従連衡、秘密協定などの機略を縦横に発揮して、絶対王制の道を築いていった。この希有な人物を深く理解するには、当時のヨーロッパ大陸で繰り広げられたさまざまな戦争での行動を理解することが不可欠だ。
30年戦争は1635年に勃発したが、1642年のリシュリューの死去後も続き、漸く1660年までにハプスブルグ・スペイン優位の時代は終わりを告げ、ルイXIV世の時代が幕を開けようとしていた。
リシュリューはヨーロッパ全域を視野に治めながらも、中央集権化と軍隊維持・運用の効率化を考えていた。長引くヨーロッパの戦争はフランスに多くの負担をかけた。そればかりでなく、戦争や反乱の火種は至るところにあり、兵力、軍備の対応においても、軍隊の中央集権的統制と関連支出の効率化は重要課題となっていた。
貴族が指揮する軍隊
リシュリューの官僚は伝統的な行政・財政手段で軍をコントロールしようとしていた。1635年以前のフランス軍隊は、貴族による指揮・統制の下で戦争行動を行っていた。しかし、貴族階層にかなり根強く存在していた個人的反目、戦争展開時における構想や戦術スキルの欠如、判断能力などの点で無力な指揮官も多かった。
実は近代初期、リシュリューの時代のフランスの軍事力については、軍隊の規模(兵員数)が大きな意味を持ち、戦争がヨーロッパ各地で拡大したこの時期に、兵員数が大きく増加し、「軍隊革命」ともいうべき、軍事史上の転機がもたらされたとの説が存在する。しかし、実際にはさまざまな理由で、その実態と実証には疑問が持たれてきた。
常時、大規模な軍隊を擁することは、財政的にも問題があり、宰相リシュリュー傘下の軍隊は、30年戦争当時、多く見積もっても7-8万人程度と推定されている(Parrott)。戦費調達の困難、無力な大臣と高い次元からの指揮、兵員に対する文官の多さ、しばしばみられる貴族のセパラティズム、反乱、時代遅れの戦術しか知らない、戦争上のスキルに欠ける貴族の指揮官など、軍隊は多くの問題を抱えていた。その中で、不利な体勢をどう克服するか。リシュリューは軍人としては、アンギャン公(後のコンデ公ルイ2世)とテュレンヌを取り立て、この2人が30年戦争でフランス軍を率いて活躍することになる。
長引く戦争で、戦費は国家の財政にとって大きな負担となり、リシュリューは塩税(gabelle)とタイユ税(土地税:taille)を引き上げている。しかし、聖職者、貴族そしてブルジョワは免税、不払いなどの道があり、リシュリューの財政計画は、各地で民衆・農民の暴動を引き起こしている。リシュリューはこれらの反乱にも、過酷に対応した。
厳しい処断
こうしたことで、リシュリュー自体も肉体的・精神的に厳しい日々を送った。軍隊を指揮する貴族層の中にも謀反を企図する者もあり、王やリシュリューは、時に驚くほど厳しい対応をしていた。とりわけ、単純な戦術上の失敗などには厳しい処断を下している。たとえば、画家ラ・トゥールの作品の愛好家であり、ロレーヌ知事としてリュネヴィルの防備に従事していたペダモン伯爵 comte de Pédamontは、1637年の戦闘で守備隊が降伏したことで、軍事裁判に処せられている(Parrott 493)*。
リシュリューの『政治宣言』も書かれた背景にはこうした事情が存在する。他方、当時のひとつの特徴として、こうしたステートメントを発することで個人的な名声高揚の意味もあったようだ。とりわけ、リシュリューにはフランスの偉大さを誇示する基盤を長期的に構築しようとする意図があったとも推測されている。
ラ・トゥールの田園、帰去来
リシュリューに自らの作品 『枢機卿帽のある聖ヒエロニムス』を寄贈したジョルジュ・ド・ラ・トゥールにしてみれば、この権勢並ぶ者なき時代の立役者に庇護を求めたのは当然としても、心中いかなる思いだったのだろうか。リシュリューは、早くからロレーヌをフランスに併合することを目論んでいた。ラ・トゥールは結局、「王の画家」のタイトルを授与されながら、花の都パリを去り、再び動乱の祖国ロレーヌに戻り、そこで人生を終わる。
*David Parrott, RICHELIEU’S ARMY, WAR, GOVERNMENT AND SOCIETY IN FRANCE, 1624-1642, Cambridge University Press, 2001.
本書はほとんど未開拓であったこの分野に、膨大な資料探索を背景に迫った大作。