Charles Dickens, Grreat Expectations,
Wordsworth Classics, 2007, cover
今年のイギリスは、オリンピック関連、エリザベス女王のダイアモンド・ジュビリーばかりが目立って報じられているが、実はもうひとつ大きな記念すべき年なのだ。イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の生誕200年に当たる。しかし、周囲の若い人たちに聞いてみると名前は知っているが、作品は読んだことがないという人が案外多い。他方、ミュージカルは観たという人にはかなり出会った。本屋に本は溢れてはいるが、読みたい本は意外に少ない。一時期、棚全体を買いたいと思った時もあったが、最近は読みたい本に一冊も出会わずに店を出ることも多い。
トルストイがシェークスピアを上回る作家と絶賛したといわれるが、ディケンズの作品は、人生の晩年を過ごしている管理人が読み返してみても、さまざまな意味で圧倒的に素晴らしいと思うのだが。
ディケンズを読み始めたのは中学生の頃だろうか、両親の蔵書にあった『オリバー・ツイスト』、『デイヴィッド・コパーフィールド』、『二都物語』など、片端から読みふけった。訳者の名前は残念ながら思い出せない。最初の頃は多分「世界名作物語」などとして、子供向けに翻案したものだったろう。その後しばらくして、中野好夫氏の訳などで読んだ。自分の仕事が忙しかった間は大分熱が冷めて遠ざかっていたが、先年のイギリス滞在中にclassicsの棚にまたとりつかれ、日本ではあまり知られていない小さな作品を見つけては、今度は原書で読むようになった。思いがけない発見もあった。ディケンズについては、時間が許せば、もうひとつブログを開きたいくらいなのだが、もうその時間はない。
働かされる子供の姿
この大作家の作品で最初に興味を惹かれるともにショックだったのは、子供が主人公で登場し、しかも子供たちがさまざまに虐待されている描写が多数あることだった。ヴィクトリア朝では日常の光景だったのだが、今日も根絶できないでいる児童労働とも重なるところが多い。主要作品をご存じの方々は、飢えに苦しんだオリヴァー、精神的に病んでしまったスマイク、いつも鞭打たれていたトラッドルとデイヴィッドなどが思い浮かぶのではないだろうか。このブログで、煙突の掃除人chimney sweepのことを書いたところ、予想外に多数のアクセスがあって驚いたこともある。
かつてアメリカの20世紀初頭の児童労働・女子労働の膨大な文献に埋もれていた駆け出しの頃、イギリスの児童労働にもかなり関心を抱いていた。このブログにも時々、工場で働く子供たちのイメージを登場させたくなる。今でも2億人(5歳-17歳)を越える子供たちが苛酷な環境の下、世界中で働かされているのだ。
ディケンズ自らの体験が
ディケンズは子供好きであったかという点については、必ずしもよく分からない。1836年に編集者の娘キャサリン・ホガースと結婚、10人の子供に恵まれた。そのうち男児は6人、いずれも名のある文士・文豪の名前をつけられていたが、誰も文学の世界では名をなさなかった。1847年に生まれた長子チャールズ・キュリフォード・ボズ・ディケンズ Charles Culliford Boz Dickensは、父親(Boz)の名声に負けてか、人生もうまくゆかなかったらしい。4番目の子は、アルフレッド・テニソン・ドルセイ・ディケンズ Alfred Tennyson D’Orsay Dickensというように大層な名前がつけられている。皆、荷が重かっただろう。他方、女の子はメアリーとかケイトなど、よくある名前だ。30歳ですでに著名な作家となっていたディケンズは、子供も大作家になることを期待したのだろうか。
ディケンズの小説になぜ子供の描写が多いのか、本当のところは分からないが、作家が過ごした境遇とはかなり関連がありそうだ。ディケンズの生家は、いちおう中産階級の家庭ではあった。父親は海軍の会計係だったが、金銭感覚に乏しく、母親も同様であったらしい。そのため、生家のあったポーツマス郊外のランドポートからロンドンに移ってまもなくの1824年には家は破産している。ディケンズ自身、親戚の経営していた靴墨工場へ働きに出されている。明らかに、作家のこのつらい経験は、作品でその光景を描き出すことを通して、次の世代の子供たちが同様な苦しみをしないようにとの願いにつながっている。
『大いなる遺産』をめぐって
ディケンズは、その後エリス/アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤務したが、まもなく文才が見出されて、『モーニング・クロニクル』紙の記者をしながら、有名なボズ(Boz)というペンネームでエッセイを雑誌に投稿し始め、次第に注目を集めるようになった。
最近読み直して、大変感動したのは名作中の名作といわれる『大いなる遺産』 Great Expectations(1860-61)だ。
たまたまBBCの番組 World Book Clubを聴いていて、その愛好者が全世界に広がっていることに改めて感動した。番組はハリエット・ギルバートという大変有能な女性モデレーターの司会で、世界中からコメントや感想を求めるというIT時代ならではのプログラムだ。お膝元のイギリスばかりでなく、インド、アフリカ、カナダ、オーストラリア、マセドニアなど、文字通りグローバルな次元に広がっている。残念ながら、日本からはコメントがなかった。
ピーター・アクロイド Peter Ackroydなど、気鋭の研究者たちがさわりの部分を朗読したり、世界中の読者からの質問に答えるというディケンズ・ファンにはこたえられない番組になっている。ディケンズの小説は、読後に落ち込んでしまうということがない。それでいて、人生の機微を十二分に堪能させてくれる。どうも今頃になって「ディケンズ・シンドローム」に、かかってしまったようだ。とりたてて、ディケンズのファンではないつもりなのだが。