L'Éventail (The Fan), Florentine Fête
1620、Etching with engraving
220 x 298mm
Albert A. Feldman Collection
ジャック・カロ、『扇』
毎年7月25日、聖(大)ヤコブの祝日に行われるフローレンスでの祝祭行事を描いた作品
カロが故郷ナンシーへ帰る直前に制作された。クリックして拡大。
画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに多少なりと関心を持たれる読者は、この画家の配偶者となったディアヌ・ル・ネールが現在のフランス、ロレーヌ地方のリュネヴィルという地の貴族の娘であったことをご記憶と思う。1617年に結婚後、ラ・トゥール夫妻はこの地に移住し、戦乱や悪疫が蔓延した時期を除き、その生涯のほとんどをリュネヴィルで過ごした。
ヴェルサイユそっくり!
今日、リュネヴィルを訪れてみると、そこには「プティ・ヴェルサイユ」といわれるヴェルサイユ宮殿をそっくり移したような大宮殿・庭園があることに驚かされる。今はとりたてて目立った産業もないリュネヴィル市は、お定まりの財政難で、2003年の大火災で焼失した宮殿部分の再建や広大な庭園の維持に大変なようで、管理状態は決して良くない。しかし、とにかくどうしてこの地に、こうした壮大な宮殿が造営されたのだろうかという疑問を持った。
多少、由来を調べてみると、リュネヴィルは中世から水運を利用した塩の輸送などで栄え、最初のリュネヴィル城が築かれたのは10世紀であった。ドイツの諸侯が幾度か領有を繰り返した後、最終的にトゥール司教がリュネヴィル伯となったことで決着した。1243年、リュネヴィル伯位はロレーヌ公国のもとに移った。17世紀以降、歴代のロレーヌ公は好んでリュネヴィルに暮らし、町を美しく再建した (1611年ロレーヌ公アンリII世がそれまでに存在したリュネヴィル城を元に再構築した)。首都であるナンシーは行政上の首都として機能した。
もっとも、17世紀、ラ・トゥール夫妻が住んでいた頃のリュネヴィル宮殿は、ナンシーの宮殿の離宮のような程度であった。それもフランスとの戦いで1638年、ほとんど全市が焼失してしまった。その後18世紀、ロレーヌ公レオポルド1世とスタニスラス・レシチンスキ公時代に宮殿の再建が進められた。今日残るのは、主としてこの時造営された建物である。
プティ・ヴェルサイユの流行
実はこの時代、フランスブルボン朝のルイ14世が、ヴェルサイユに大宮殿を造営したことを模して、ヨーロッパ中でこうした宮殿を建設することが流行した。あまり有名でないプリンスまでもが、ブルボン朝の繁栄にならいたいと思ったようだ。かれらは自分たちの領地の中心から離れた場所へ競って王宮を造営した。
フランスの影響下にあったロレーヌ公国のリュネヴィルはその代表例だった。そのほかには、ナポリ王国のカセルタ、プロシャのポツダム、ヴィエナ郊外のシェーンブルンなどがある。ルイ王朝の仇敵であったイギリスのウイリアム・アンド・メアリーまでもが、ロンドン郊外にテューダー風の豪華なハンプトン宮殿を建設した。宮殿を都市から引き離したことで、それまでなかった宮廷生活の世界が創り出され、ヨーロッパの王家の間に新たなファッションを生んだ。17世紀末から18世紀初めにかけて、こうした風潮はある意味で近世初期ヨーロッパの絶頂期となった。
宮廷文化の盛衰
これらの君主たちは競って自分の王宮を華麗なものとし、そこにおける独自の文化を生みだそうとした。ひとたびそうした空間に慣れた貴族たちは、そこに定着し、もとの都市へ戻ろjうとしなかった。1634年、長年慣れ親しんだ宮廷から追放されたあるスペイン貴族の言葉が残されている。「宮殿を離れることは......世界の最果ての地に行くようなものだ。暖かさや光溢れる所から離れ、ひとが誰も住んでいない、荒れ果てた土地にひとり住むようなものだ。」*1
彼らにとって、宮廷の生活がいかに重要なものであるかを思わせる言葉だ。しかし、現実には時の経過とともに、宮殿生活には退廃やマンネリズムがはびこり、衰退の色が濃くなっていた場合が多かったようだ。これは革命前のヴェルサイユの状況からも推測できる。
さて、ジャック・カロやラ・トゥールが生きていた17世紀前半の頃は、未だ宮廷文化が華やかであった。ロレーヌ公国のような小さな国でも、貴族たちはいかに装い、振る舞えば、貴族らしく見えるか、それぞれに努力していた。16世紀を代表する人文学者のひとりエラスムスの言葉が残っている。「最初はそれ(貴族)にふさわしい衣装でよい。しかしいずれ……[彼らは]その役割を演じなければならない。」*2
貴族層の分化
17世紀ロレーヌ公国でも貴族は社会生活で中心的役割を果たしていた。しかし、貴族の数が増えてくると、服装だけで彼(女)たちの階層を推定することはかなり困難になっていたらしい。カロの版画はいわばスタイルブックの役割も果たし、そうした際の判別にきわめて重宝されたようだ。
この画家は分化し、複雑になった貴族層の微妙な差異を衣装の細部まで描き込むことで、見る人に判断材料を与えていた。カロは正確な観察の下に描写で知られた画家であった。そのため、描かれた服装は当時の貴族たちのさまざまな姿を今日に伝えている。しかし、カロと同時代の人にとっても、同じ貴族階層の中での上下関係を推定することはかなり困難であったようだ。そのために、画家は人物の背景に彼(女)たちの社会階層を暗示する邸宅や住宅地域などを描き込んだ。これを見ることで当時の人々は、宮廷都市ナンシーの町並みばかりでなく、描かれた人物の階層を知ることができた。さらに、ひとりひとりの衣装の詳細、装身具、武具などの細部を描いて、彼らの貴族階級あるいはブルジョワ層の内部における階層の上下を判断できるようにしていた。
描かれた人物がしばしばコミカルな容貌をしているのは、該当する人物がナンシーでは著名であったこと、あるいは友人たちをモデルにしたためではないかと推定されている。さらに、カロは金銭的には裕福であるブルジョワたちがなんとか貴族階級へ入り込みたいと、あたかも貴族のように振る舞っていること、さらに貴族層の内部でもより昇進したいと、さまざまな試みがなされていることを、風刺をこめて描いている。もちろん、カロのような中層、下層の貴族たちもそれぞれに階層内での上方移動のために、できうるかぎりの努力をしていたことはいうまでもない。
彼(女)らが社会における自分たちの地位を認識する機会はさまざまにあったが、そのひとつをカロの作品から紹介しておこう。上に掲げた作品は、フローレンスで、毎年、聖(大)ヤコブの祝日に、1日かぎり催される naumachia と呼ばれた盛大なスペクタクルである。これはフローレンス市内を流れるアルノ川で海戦の光景を再現し、人々がそれぞれに着飾り、自らの階層に対応した場所から見物している光景である。メディチ家が主催し、その権威と財力を誇示した行事のひとつであった。多数の人々が川の両岸、橋の上などから見物している光景から、この行事がきわめて盛大なものであったことがうかがわれる(今日だったら隅田川の花火見物のような光景か)。カロが描かなければ、その詳細は今日に伝わらなかったともいわれる。いわば、今日の写真に相当する意義を持っている。
テーマは、アルノ川の中流に作られた人工島をめぐり、織物工と染色工のギルドが争奪の戦いをするという設定で、銃火器の代わりに水を打ち合うという形になっている。この作品は丈夫な紙に印刷され(裏側は説明文)、銀の持ち手がついた贅沢な扇(形状は今日の団扇に近い)であり、コジモII世の命で500枚だけ制作され、貴顕の人々に配布されたという。扇をもらえた人々は、自らの社会的地位をさぞや誇示したことだろう。中央右手の女性が左手に得意げに掲げている。
華麗な馬車に乗ったり、遠めがね(望遠鏡)で眺める人(画面、左手)も描かれている。ブログのガリレオ・ガリレイの記事で記したが、望遠鏡はすでにこうした形で使われていた。ガリレオはほぼ同じ時期にコジモII世の庇護の下にあり、カロの友人であった。いうまでもなく、手前の見晴らしの良い場所に陣取っているのは、フローレンス貴族社会の上層に位置する人たちである。この時代の貴族とは、いかなる社会的地位を占めていたかが、如実に伝わってくる。
このように、カロはフローレンス時代、そして故郷ナンシーへ戻ってからも、自らが貴族でありながらも、職人、商人など、そして社会の下層部に多数存在した貧民の状況をあたかも記録写真のように、写し取り、作品にしていった。
続く
*1
Jonathan Dewald, The European Nobility 1400-1800 (Cambridge: Cambridge University Press, 1999) に引用されている貴族の言葉(原典はR.A. Stradlimg, Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665, Cambridge, 1988, 156)。
*2
Exhibition Catalogue Jacques Callot (2013, 20) quoted from Erasmus’s Colloquy ”The False Knight” in Jackson, 1964
Reference: Exhibition Catalogue: Princes & Paupers, The Art of Jacques Callot, The Museum of Fine Arts, Houston, 2013.