プルコギ(牛肉細切れなどをニンニク・ショウガのみじん切り、コチジャン、日本酒、醤油、砂糖、ごまをいれたソースに入れてよくもむ。タマネギ、白ネギ、ピーマン、にんじん、もやし、椎茸、にら=今夜は買うのを忘れた、を入れて、さらにもむ。肉を別にわけて、フライパンでまず肉を焼く。焦げ目が付いたところで、野菜を入れて、ふたをし蒸し煮にする。途中、肉が上に来るようにひっくり返すと良い。トウガラシ粉=あらいもの、を入れて、辛みを整える。ご飯と食べてもよし、ビールによし、赤ワインによし)
三砂ちづる、2004、『オニババ化する女たち:女性の身体性を取り戻す』、光文社新書
十月末に読了していたのだが、感想を書きそびれていたので、書いておくことにする。
本書は、判断に苦しむ本ではある。というのも、「女性の身体性を取り戻す」という副題が、ある種キャッチーで、女性の身体から見た主体性を取り戻すことを訴えかける書物と思えるのだが、著者の書いていることは、ちょっとおばさんで、若い女の子達にもっと「あんた達女でしょ、しっかりしなさい」というメッセージを出し、相変わらず男性中心の現代社会に生きる状況をそのままに肯定したまま、「女性が変われば世界が変わる」とも言いたげである。
つぎに「オニババ」という主題が気になる。著者によると、おとぎ話に出てくる「オニババ」は女性性を完遂できなかったので森の中で待ち伏せして若い男を食らう恐ろしい魔物に変身したものだという。これは、いつの時代にでも、女性性を理解できない存在があって、それが、「オニババ」と呼ばれる存在になるので、女性性を十分に体得せよというのである。現代女性も性と生殖に関する認識を改めないとやはり「オニババ」化するというのである。
著者は、一方では、七-八〇歳代の老婆が自らの身体を意のままに操ることを手がかりに、老婆に学んで自らの身体を制御するとよろしいといっており、現代女性はそのような女性性の理解がないと主張する。わたしの言いたいのは、著者の論理が読めないと言うことなのだが、どうだろうか。過去に学べといっているわけでもないのに、七-八〇歳代の老婆に学ぶしかないという。しかし、以下のように読み替えると、著者の論理は理解できるのではないかと思う。
フェミニズムの運動は、近代化の過程の中で、家庭の中で囲い込まれ、生産の場から疎外されてきた女性を「人間」として再び見いだし、男性と対等の存在として位置づけていこうという側面が強く押し出されてきた。たとえば、古典的ではあるが、高群の「女性は古代、太陽であった」といった主張であろうか。そして、男に互して社会進出をはたし、同様の自己実現をしていくこと、それが望ましいことのような主張があった。しかし、現実は、困難であり、また再生産を担う女性性と自己実現の追求が矛盾を来たし、高齢出産や独身生活を選択しなくてはならなくなってきた。それに対して、本書は、女性と男性は違う、女性は生殖・生理の点で男性とは異なる存在として、自らを位置づけることを主張する。性と生殖は適切な年齢のうちに自らの身体性を十分に理解して、その機能を発揮するべきであり、そのために、自らの身体性を自立的に認識すべきであるという主張しているのである。
わたしは、「オニババ」というタイトルが必ずしもふさわしくなく、かえって論拠・論点を混乱させると考える。むしろ、現代社会を支配する男性論理の超越のための戦略としての「身体性を取り戻す」という主張でなければならないと思う。はたして、著者は従来のリプロダクティブヘルスの主張を乗り越えて新しい視野を開くのか、次書の出版はまだか・・・・。
2005-01-19 23:28:59 |
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大江秀房、2004、『早すぎた発見、忘れられし論文:常識を覆す大発見に秘められた真実』、講談社ブルーバックス
本書は、アボガドロ、メンデル、キャベンディッシュ、ガロア、ポアンカレ、ウェゲナー、アレニウス、ツィオルコフスキー、ギブス、アーベルをあげて、彼らが現代科学技術の基礎を築く大発見を行ったにもかかわらず同時代には見いだされることなく、最晩年もしくは死後にその成果が再発見された有り様を描いている。本人の生育、学習・研究歴や当時の学会事情、社会事情なども描かれ、コンパクトながら、背景がよく分かるように工夫されている。
大発見をしながらも埋もれた発見・論文と聞くと、不遇であった生涯と思いがちであるが、ひょっとすると、それは、思い過ごしで、彼らは、それなりに生き甲斐を持って人生を送ったように思えてくる。私たちと同時代にもたとえば五〇年、百年後に見いだされる大発見・論文はやはりあるのではないだろうか。現代だから、あるいは、インターネットの世界だからかつてに比べるとチャンスは多いかもしれないが、それでも、すべてがサルベージされているわけでもないだろう。
その意味で、ひねくれた読み方かもしれないが、本書は現代の同時代における「未来の」大学者のために読む方がよいのではないか。私たちの身近にいるかもしれない世紀の発見をする人物を好奇心を持って見いだそうとすることのきっかけになるといいのではないかと思う。
2005-01-19 22:37:46 |
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チキンソテー+トリフ風味ペースト(皮付きモモ鶏肉の一口大に切ったものをしっかりと塩胡椒しておく。フライパンにオリーブオイルを入れて、皮を下にしっかりと焦げ目をつけるぐらいにソテーする。裏返して焼く。皮を上に皿に並べ、その上にトリフ風味ソースをのせる。このソースは、いただき物。トリフやマッシュルームの細みじんがペースト状になっている。使い方がよく分からなかったので、今夜はこのようにしてみた。ペーストに塩気がないので、香りはよいが、今ひとつの感じ。次は、パスタに使ってみるか・・・)
ルッコラとブロッコリー・スプラウトのサラダ
ブロッコリーのリンギーネ(ゆで汁に塩を入れ十分沸騰させたところで、切り分けたブロッコリーとリンギーネを入れ、アルデンテで湯を切る。皿に空けて、胡椒を十分にかけ、オリーブオイルをかけ回す)
今夜は、千種区猫が洞の「空庵」で新年会があった。
空庵は創作和風料理の店で、コンクリート打ちっ放しの外観・内装の店で和風の店らしからぬテーブル席のみの店構えである。細々と手の込んだ懐石風の皿が次々と出された。
http://www.kuuan.com/
すき焼き(すき焼き肉、焼き豆腐、シラタキ、しいたけ、えのきだけ、ささがきゴボウ、春菊、白ねぎ。しょうゆ、砂糖、生卵、ビール。割り下を作らず、しょうゆ、砂糖、ビールを入れて味を調えていった)
スーパーに豚レバーがあったのでそれを使って中華粥を作ってみた。
中華粥(たっぷりの水に米を入れ、ホタテ貝柱の乾物を砕いて入れる。松の実、クコの実、豚レバーを細く切って入れる。塩で味を付ける。1時間ばかりことこと煮る)
空心菜の炒め物(塩胡椒で味付け)
ズッキーニの炒め物(中国醤油で味付け)
鶏手羽元とカブラの煮物(手羽元を皮に焦げ目が付くぐらいに炒める。赤唐辛子も一緒に炒める。カブラを適当なサイズに切って、同じように炒める。カブラや手羽元に軽く焦げ目が付いたところで日本酒濃い口醤油を入れ、炒りつける。水を追加し、ダシ昆布を一切れ入れる。カブラが煮くずれしない程度でに終えるのが望ましい。時間がたつようであれば、カブラを取り出す)
残り野菜とカブラの葉の炒めもの(前夜の鍋の残り、ネギ、水菜、薄揚げ、キノコとカブラの葉をごま油とトウガラシで炒め、香り付けのナンプラーと薄口醤油、日本酒で味を調える)
おじや(前夜の鍋の残り汁をベースに、米からおじやを作る。仕上げに溶き卵と小口切りのネギ、ひとつまみの塩。ポン酢と七味で食す)
ハリハリ鍋(ダシ昆布でダシをとっておく。水菜、九条ネギ、椎茸、舞茸、豆腐、豚しゃぶしゃぶ肉。ごまだれとポン酢)
ミートローフ(合挽ミンチにタマネギのみじん切り、卵、パン粉、塩胡椒、オレガノ、オールスパイス、パプリカ、ナツメグを入れて、粘りが出るまでよく練る。ジャガイモ、にんじん、赤ピーマンを薄切りしておく。カセロールにオリーブオイルをしき、肉、野菜、肉と重ねる。オーブンを250度で30分で焼き上げる)
トマトスープ(ベーコンをサイの目に切り、ガーリック・ピューレ、アンチョビとともに炒める。水を入れて沸騰させ、浮いてきた油をすくい取る。ミニトマトを入れて、塩胡椒で味を調える。イタリアンパセリを入れて仕上げる)
ルッコラとマッシュルームのサラダ
肉じゃが(ごまあぶらにしょうが、赤唐辛子、アンチョビーを入れ、香りを出す。タマネギ、牛肉を入れ、甘みを出す。ジャガイモを八等分したものをいれしばし炒める。水をひたひたまで入れる。コンニャクを入れる。薄口醤油と紹興酒を入れる。しめじをいれる)
アンチョビーと紹興酒を思いつきで入れたが、コクが増すようである。お試しあれ。
フレッシュトマトとベーコンのアスパラガス・パスタ(いただき物のイタリアみやげの「Tagliatelle agli Asparagi」をつかってみた。ブロック・ベーコンを小さなさいの目に切り、オリーブオイルとガーリック、赤唐辛子とともに炒めておく。パスタをゆでるタイミングと合わせて皮と種を取ったフレッシュトマトを細かく切ったものを入れてソースを作る。茹で上がったパスタの湯をしっかりきって、あわせ、胡椒で味を調える)
タラモサラダ(たらこをいただいていたので、マッシュドポテトにさいの目に切ったにんじんをゆでたものと、たらこをしごいて入れ、塩胡椒で味を調えた。添え野菜として、サラダ菜とクレソン)
昨日は、豊川稲荷、今日は千代保稲荷に初詣に行った。
いつもの浅野屋(トンカツ定食、イベリコ豚のソテー定食、チーズとクルミのサラダ)
クリスマス以来久しぶりであった。
デイビッド・クリスタル、2004、消滅する言語:人類の知的遺産をいかに守るか、中公新書
今地球上から急速に言語の数が減少しているという。クリスタルは英国の言語学者で浩瀚な執筆活動を行っているという。本書は、世界の弱小言語が消滅の危機に立たされていることに対して警鐘を与えたものである。
本書の訳者の一人斎藤兆史が「あとがき」のなかで、「本書は少しばかり毒を含んでいる。・・・中略・・・(本書に書かれていることをそのまま鵜呑みにすると)危機言語を救済するどころか、逆にそれをさらに危機的な状況に追い込むことにもなりかねない」と述べている。すなわち、本書は英語が主体あるいは著者本人が意識しているかしていないかは明らかではないが、はっきりと英語帝国主義的な思考法でで描かれている。すなわち、英語が世界を席巻している現状を所与のものとして、危機言語を救済する道は英語との二言語併用教育であるというのである。
クリスタルが言うところの二言語併用教育というのは、メインストリームの英語へのむしろ適応教育のひとつのように響く。はたして、二言語併用教育は可能なのであろうか。言うは安く、行うはかたしである。また、それが唯一の方法なのであろうか。
わたしは、オーストラリアの少数言語のコミュニティにおいて二言語併用教育が行われている現場を見たことがある。ここで、危機言語の側の人々の持つ教育観を紹介しておきたい。まず、二言語併用教育が行われる場合、どうしても教育内容が希薄になりがちである。単純すぎる比較であるが、同一授業時間内に、二つの言語を用いて同一内容を教育しようとすると、半分の内容しか教育できないことになる。授業時間を倍にすれば良いというものではない。また、英語使用者が社会のメインストリーム側に立つと理解する親たちは、子どもの将来における学力のことを思えば、英語での教育の方がいいではないかという。
もちろん、これは、大変危険である。危機言語は、このことによって消滅への時間を短縮してしまいかねないのである。学校教育において学ばれた事柄が親との間のコミュニケーションギャップを増幅し、ひいては、当該社会の崩壊へと背を押しかねないのである。
問題の解決はもちろん単純ではなく、様々な試みが行われるべきであろうことは言うまでもない。危機言語の保全のための緊急言語調査の実施や社会政策として危機言語対策を講ずるべきであろう。しかし、クリスタルのような英語中心主義の立場は、そもそも、もっとも危険なのではないだろうか。言語学者でも教育学者でもない者が生半可な理解の上で発言すべきではないのかもしれないが、ひとつのヒントは、カナダの英仏両公用語に関する言語教育政策にあるのではないかと思われる。つまりは、少なくともケベックの仏語の使用者は英語使用者とほぼ拮抗しており、政治的にもしばしば独立運動を行うなど、かなり強力である。こうした英語と仏語の拮抗した状況の中で生まれてきたカナダの公用語に関する考え方が、ひとつのヒントのように思われる。そして、この公用語政策は、仏語以外のたとえば、イヌイット言語やワンネーション諸言語についても援用されていると聞く。
日本も例外ではない。日本語は次々とカタカナことばが借用されてきている。英語学習熱も高い(かといって、実態はたいして効果はあがっていないようであるが)。それに対して国語審議会の答申する内容は枝葉末節の語彙のコントロールだけである。本当に必要なことは、各地の方言や少数民族の言語に対する理解を向上させるような政策や教育方法の研究がきわめて重要なのであろう。
以下に、とりあえず見つけたカナダ政府のサイトのURLを記録しておく。http://www.hrma-agrh.gc.ca/ollo/common/policies-politiques_e.asp
2005-01-09 11:40:41 |
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