読了・オニババ化する女たち
三砂ちづる、2004、『オニババ化する女たち:女性の身体性を取り戻す』、光文社新書
十月末に読了していたのだが、感想を書きそびれていたので、書いておくことにする。
本書は、判断に苦しむ本ではある。というのも、「女性の身体性を取り戻す」という副題が、ある種キャッチーで、女性の身体から見た主体性を取り戻すことを訴えかける書物と思えるのだが、著者の書いていることは、ちょっとおばさんで、若い女の子達にもっと「あんた達女でしょ、しっかりしなさい」というメッセージを出し、相変わらず男性中心の現代社会に生きる状況をそのままに肯定したまま、「女性が変われば世界が変わる」とも言いたげである。
つぎに「オニババ」という主題が気になる。著者によると、おとぎ話に出てくる「オニババ」は女性性を完遂できなかったので森の中で待ち伏せして若い男を食らう恐ろしい魔物に変身したものだという。これは、いつの時代にでも、女性性を理解できない存在があって、それが、「オニババ」と呼ばれる存在になるので、女性性を十分に体得せよというのである。現代女性も性と生殖に関する認識を改めないとやはり「オニババ」化するというのである。
著者は、一方では、七-八〇歳代の老婆が自らの身体を意のままに操ることを手がかりに、老婆に学んで自らの身体を制御するとよろしいといっており、現代女性はそのような女性性の理解がないと主張する。わたしの言いたいのは、著者の論理が読めないと言うことなのだが、どうだろうか。過去に学べといっているわけでもないのに、七-八〇歳代の老婆に学ぶしかないという。しかし、以下のように読み替えると、著者の論理は理解できるのではないかと思う。
フェミニズムの運動は、近代化の過程の中で、家庭の中で囲い込まれ、生産の場から疎外されてきた女性を「人間」として再び見いだし、男性と対等の存在として位置づけていこうという側面が強く押し出されてきた。たとえば、古典的ではあるが、高群の「女性は古代、太陽であった」といった主張であろうか。そして、男に互して社会進出をはたし、同様の自己実現をしていくこと、それが望ましいことのような主張があった。しかし、現実は、困難であり、また再生産を担う女性性と自己実現の追求が矛盾を来たし、高齢出産や独身生活を選択しなくてはならなくなってきた。それに対して、本書は、女性と男性は違う、女性は生殖・生理の点で男性とは異なる存在として、自らを位置づけることを主張する。性と生殖は適切な年齢のうちに自らの身体性を十分に理解して、その機能を発揮するべきであり、そのために、自らの身体性を自立的に認識すべきであるという主張しているのである。
わたしは、「オニババ」というタイトルが必ずしもふさわしくなく、かえって論拠・論点を混乱させると考える。むしろ、現代社会を支配する男性論理の超越のための戦略としての「身体性を取り戻す」という主張でなければならないと思う。はたして、著者は従来のリプロダクティブヘルスの主張を乗り越えて新しい視野を開くのか、次書の出版はまだか・・・・。
十月末に読了していたのだが、感想を書きそびれていたので、書いておくことにする。
本書は、判断に苦しむ本ではある。というのも、「女性の身体性を取り戻す」という副題が、ある種キャッチーで、女性の身体から見た主体性を取り戻すことを訴えかける書物と思えるのだが、著者の書いていることは、ちょっとおばさんで、若い女の子達にもっと「あんた達女でしょ、しっかりしなさい」というメッセージを出し、相変わらず男性中心の現代社会に生きる状況をそのままに肯定したまま、「女性が変われば世界が変わる」とも言いたげである。
つぎに「オニババ」という主題が気になる。著者によると、おとぎ話に出てくる「オニババ」は女性性を完遂できなかったので森の中で待ち伏せして若い男を食らう恐ろしい魔物に変身したものだという。これは、いつの時代にでも、女性性を理解できない存在があって、それが、「オニババ」と呼ばれる存在になるので、女性性を十分に体得せよというのである。現代女性も性と生殖に関する認識を改めないとやはり「オニババ」化するというのである。
著者は、一方では、七-八〇歳代の老婆が自らの身体を意のままに操ることを手がかりに、老婆に学んで自らの身体を制御するとよろしいといっており、現代女性はそのような女性性の理解がないと主張する。わたしの言いたいのは、著者の論理が読めないと言うことなのだが、どうだろうか。過去に学べといっているわけでもないのに、七-八〇歳代の老婆に学ぶしかないという。しかし、以下のように読み替えると、著者の論理は理解できるのではないかと思う。
フェミニズムの運動は、近代化の過程の中で、家庭の中で囲い込まれ、生産の場から疎外されてきた女性を「人間」として再び見いだし、男性と対等の存在として位置づけていこうという側面が強く押し出されてきた。たとえば、古典的ではあるが、高群の「女性は古代、太陽であった」といった主張であろうか。そして、男に互して社会進出をはたし、同様の自己実現をしていくこと、それが望ましいことのような主張があった。しかし、現実は、困難であり、また再生産を担う女性性と自己実現の追求が矛盾を来たし、高齢出産や独身生活を選択しなくてはならなくなってきた。それに対して、本書は、女性と男性は違う、女性は生殖・生理の点で男性とは異なる存在として、自らを位置づけることを主張する。性と生殖は適切な年齢のうちに自らの身体性を十分に理解して、その機能を発揮するべきであり、そのために、自らの身体性を自立的に認識すべきであるという主張しているのである。
わたしは、「オニババ」というタイトルが必ずしもふさわしくなく、かえって論拠・論点を混乱させると考える。むしろ、現代社会を支配する男性論理の超越のための戦略としての「身体性を取り戻す」という主張でなければならないと思う。はたして、著者は従来のリプロダクティブヘルスの主張を乗り越えて新しい視野を開くのか、次書の出版はまだか・・・・。
オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す光文社このアイテムの詳細を見る |