人 生 峠峠は、上って下りると書く。現在ゆったり登り詰めた峠、下り坂を歩いています。
碓氷峠のてっぺん公園
大菩薩峠、2011,12山行
人 生 峠
人生峠・音楽・村田英雄
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負けて泣いてりゃ突き落とされ
無常谷間の人生峠
泣いた、歯を食いしばった、…何回も何回もありました。
社会の重荷にならないように、ゆっくりとそろりと……歩いて行きます。
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皆さんの思い出を1行でも書いていただくと嬉しいです。
、
久しぶりに村田英雄さんの歌声を聞きました。
生まれた時にはすでに父は亡くなっていました。
今年、後期高齢者の仲間入りをした私は父の3倍も生きて来ました。
周りに可愛がられて成長しましたが、高校入学の時戸籍謄本をとったら、「戸籍の筆頭者」・・・ショックでした!
結婚も、何かの時にはしっかりした親がいてくれる方がいいと、三代三夫婦に小姑まで居る家に嫁ぎました。
悔し涙を何度流した事でしょう・・・
辛い時、いつも写真でしか見たことのない父を想いました。
黙って何も言わず、見守ってくれた養父にも感謝です。
5年ほど前に、よく似た境遇の親友が出来ました。
話すごとに「私も!」「私もそうだった!」と心を許して何でも話せます。
いつもありがとう。
語るも、笑うも、涙の連続でした。
今峠を登り詰め、人生の下りの裾野を歩いています。
長くなったズボンの裾を踏んずけながら、
子供達や、社会に迷惑かけないようにユックリとそしてスローに・・・・・。
下りが怖い・・
近場に平尾台という山があって 翁草が咲きます。
きっと今頃咲いているでしょう。
上りは 下向きの翁草がおいでおいで というから行けるけど
振り返って下を見ると怖い・・ お尻を撞いております。
去年も行ったけど 今年は 今日 緊急事態宣言があるし・・
来年 ↑のとんちゃんさんに1年遅れて後期高齢者
人生の峠 エスカレーターがあればいいな
エレベーターじゃ景色が見えない・・
小生が学校を終えて就職し、高崎線の熊谷駅を出た時には見送ってくれる人たちが10人ほどは居たように思います。
大坂本社に入社してから失敗・挫折・転職を人並みに繰り返して平凡な今があります。
故郷に錦を飾ることはありませんでしたが、人を騙すこともなく、犯罪には手を染めることもなくここまで来られたのは、ひとえに家族や周りの人達のお陰だと思っています。
先日筋トレのデータを見たら、3月のひと月で、出来過ぎの数字が積算されていました。
こうして見るとこれからの自分の人生は登り坂かもしれないと今頃になって馬鹿なことを一人合点しています。
つまり、若いうちに落ちるところまで落ちてしまっていたのかもしれません。
残りの人生は、縄文人様を見倣ってゆっくりと、ごくごくゆっくりと進んで行くことに致します。
生まれた時は親は無、この辺の人生境遇は私と一緒でした。
そのころ我は幼く、母が子供3人育てるのに苦労したであろうことが、この歳になりしみじみ分かります。
≫三代三夫婦に小姑まで居る家に嫁ぎました。
それはそれは大変でした。
よく辛抱され、今あるのは艱難辛苦を乗り越えたからこそ!!今の幸せ家庭があるのでしょう。
人は嬉しいこと楽しいことは記憶にあまり残りませんが、この様に身に降りかかったことは鮮明に覚えておりますよ・・・・ね。
ゆったり行きましょう、
のんびりと・・・・・・
健康に気をつけて。
、
≫近場に平尾台という山があって 翁草が咲きます。
この文脈気に入りました。
まさに爺さんが、峠を登り詰め、ヨッタラコ、ドッコイショト爺さんが、峠を下りてくる。
それを(翁草)が見つめる。
きっと翁草が、じいさん頑張りな…と一声かけてくれるであろう。
福岡も今夜発表の非常事態宣言に繰り込まれて!!
頑張んべ~
コロナ去るまで
消えるまで
、
出身が熊谷でしたか・・・・?
発つ人あれば、来る人あり縄文人は熊谷石原町に2年ほど御厄介に成っていました。
熊谷でも、東京へ来てからも苦労しました、それが自分自身だけであればよかったですが親にまで心労を掛けました。
今こうして太陽が東から出て西に沈むを見られることは、
廻りの温かいご支援があったればこそです。
あの時はああすれば、こうすればと言うことが走馬灯のように現れてきます。
これからは、
ゆったり行きましょう、
のんびりと・・・・・・
健康に気をつけて。
、
なんて、某番組の某俳優さんが仰っているのがとても印象的です♪
その番組を毎日見ては、その活力に自分も…ってなっています。