古地図から見た昔の新宿宿場町と今の街
甲州街道に新宿(しんじゅく)が有りますが、
葛飾・陸前浜街道(水戸街道)の宿は新宿(にいじゅく)と呼ぶ。
かつしか、いろはカルタ
江戸時代の新宿(にいじく)は宿場で、浜街道と佐倉の両街道の分岐点。
「枡形」の道の両側に中川屋、藤や、亀屋などの旅籠や茶店が立ち並んでいた。
甲州街道の「内藤新宿」より古い宿場町である。
新宿・渡し・追分碑・地蔵尊付近概略図
☆ 成田街道(佐倉道)→市川の渡しを通り成田山へ参拝
☆ 帝釈道(国分道)→柴又帝釈天へ参拝
は此処からが街道の起点
古地図から見た新宿の宿場
明治38年・南葛飾郡と呼ばれた当時絵図(狩野栄一氏から提供され地図)
撮影技術が悪く地図の価値が、全くありません。申し訳ない。
新宿渡し名所絵図
嘘のようなホントの話
明治30年頃、常磐線の金町駅を設置する話が持ち上がった。
すると大反対する住民が沢山居ました。
反対する住民は、新宿渡しの関係者、宿場町の関係者であったと言う。
この町を人が通らなくなって、街がさびれてしまうと言う
ホントの話です。
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中川橋付近(新宿の渡しが有った場所)の現在の様子
中川橋東詰の様子(上3枚)
現在の新宿2丁目(宿場町)付近
「枡形」の道の両側に旅籠や茶店が立ち並んでいた。
街道の裏手には、宝蓮寺、浄心寺があり、
地図の上から見ると、大きな池が有ったことが伺える。
真っ直ぐは日枝神社、角から2軒目がお煎餅や 保育園入り口
日枝神社
面影を残す金阿弥橋
陸前浜街道(水戸道)と佐倉道の分岐
正面に「右 なりたちば寺道」「左 水戸街道」とあり、
右側面に「さくらミち」、左側面に「安永六(1777)丁酉年八月吉日
石橋供養塔」と刻んであります。
約5年の歳月をかけて、この付近に27箇所の石橋を架けたので、その供養のため不動尊と、供養塔を兼ねた道標を建てたのだと言います。葛飾区の指定文化財となっていました。
この付近には、水元からの用水路が流れており橋が無ければ、
行き来することはできない。
27ヶ所の橋はそんな状況から生まれたのであろう。
この場所が、水戸道と佐倉道の分岐点でした。交通量の激しい水戸街道を横切ると、これがと思うほどの狭い佐倉道が、ほぼ南方向へ続きます。 (旧・成田街道を歩くHPから)
(残念なことに、ここのお蕎麦屋さんと、石標が取り払われて
空き地になっています。石標は博物館に保管されています)
地蔵尊付近・陸前浜街道と帝釈道の分岐
沢山の石像が有ります。1つ1つのそれぞれ建立の価値が有るのでしょう。
大きな松が有り日影となって、憩いの場所です。
帝釈道(国分道)の起点
帝釈道(国分道)の道標を調べに行きましたら、
やはり「枡形」の道の宿場を見ない訳にはいかなくなりました。
そんなことから、記事の分量が多くなりました。
地主の土地がつぶれる、悪人が入ってくる・・・川港がさびれる、理由は様々。
私の生れた村、人家から2㎞ばかり。段丘を三段上った山の中。人家はありません。今は全国の鉄道マニアで有名な過疎駅だそうです。
道しるべ・・・古きを尋ねて、昔の文化を知る。
永六輔、大橋巨泉の徹子の部屋Youtubeありがとうございました。
そんなことからお客さんも少ないようです。盛り上がりが少ない。
文化財保護法が改正になったことを契機に、
・柴又地域を取り巻く文化的景観、
・帝釈天・門前参道
・大都市近郊の低地開発の歴史的空間
のもとに、地域を巻き込んだ大掛かりな調査が行われたようです。
永さん、巨泉さんが逝った。
職場で話題になり、盛り上がった。徹子の部屋に二人で出たよ!という話を聞きかじった。
検索、ヒットしました。
興味深く拝見しました。
「地方史はお金にならぬ』
やはり、その地方の人だけ、やはり全国区でないといかんようです。