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千葉県我孫子市、布佐・新木の三大緑地を歩く, ≪番外特別編・成田線カラス部隊≫

2016年07月30日 | 紀  フジの会 ・ 葛ハイ

  電車で野菜等を運び、
    都内でお得意先で商う、”カラス部隊の元祖”

【 レポートが長文になりました。
昭和史・ニッポンの母ちゃん物語。
時間の許す方は、お読みください 】

 

  職場でJR成田線に乗車し、我孫子周辺をウオークした話をした。
緑がいっぱいで広大な住宅地で、農業も盛んでした。暮らしに伸び伸び感が見えた。
成田線は単線で30分間隔に、一本ぐらいでした。

1、  Uさんが、話に加わった
  Uさんは、成田空港公団に勤務していた関係から我孫子付近は明るく、通勤線で使ったこともあり詳しい。
『成田線は、むかしカラス部隊の元祖と言われた電車です。背中に野菜・コメ・穀類等農家で取れた産物を背負い、手に荷物を下げて電車に乗った。いわゆる”おばちゃん達”が背中にいっぱい背負って、朝早く電車で神田・上野・日暮里などの家々を訪ねて商いをした』
と説明してくれました。

  Uさんは、通勤で成田線や京成線を利用したことから車内のおばさんたちの状況を知っていた。
私も早番勤務の時、JR総武線に乗ると、黒い大きな風呂敷で籠を覆い、手に荷物で運ぶおばちゃん達の姿を見た。この人達何だろう・・・・・・一瞬思った??
確か、昭和35~8年くらいの頃であった。


 2、「故きを温ねて新しきを知る」
  この文言は、私のポリシーです。心の底辺に渦巻いています。
あまりにも懐かしきカラス部隊の語彙に触れ興奮した。
HPをフルに利用してレポートを作成した。  ①~⑥まではHPからお借りしました。

      
       成田線路線図    

 

 3、電車内のカラス部隊 

 早朝から重い荷物を背負い、電車に乗って東京へ向かう人々の群がある。
カラス部隊と言われた行商のおばちゃん達。
大正12年9月の関東大震災のとき、救援物資を搬入するため千葉県の農家の主婦たちが支援活動に乗り出した。
この震災の時に、自家製の野菜や卵を持って見舞いに行ったのが、この行商の始まりと言われている。
 

 


              ①

  安食駅4時58分の一番電車の乗り込み、お得意様に売りさばき、完売になった10時すぎには空になった籠の上下を重ねて、小さくまとめ帰り支度をする。
帰りの電車では通路に新聞紙を敷き、その上に籠を置き、手帳に売上などのメモをした後は眠っていく。12時過ぎに安食駅に着き家路へと急ぐ


            ②
 最初の野菜行商の始まりの頃の社内の様子です。

 


             ③
  
 社内での場所も決まり、東京へ向かう。


             ④ 
竹籠を何段にも積む。帰りは小さく重ねてが少なくなる。

          (出典①②③④・東京ベイ船橋ビビットから抜粋)

4、行商専用列車の廃止

  最も行商が盛んだった1955年(昭和30年)から1960年ごろは、国鉄成田線で 2800人、京成線で 2000人を数え,1日2回の往復し東京の客からは、千葉のおばちゃん(千葉のおばさん)として親しまれる。  だが近年は、高齢化とともに利用者が減少し,1日20人程度になって、2013年(平成25年)3月末で行商専用車両は廃止された.

  当時、常盤、成田両線は普通でさえ通勤や通学の増加で混雑した。それに加えて行商人が乗り込む。そして、それぞれの人が得意先の希望を満たすために、車内で行商人同士の売買や、物々交換がなされた。これが大荷物とともに一般の乗客のひんしゅくを買ったため、改善を求められた。


                 ⑤ 
 湖北駅のホームにさび付いた鋼鉄製の棚が七つ残っている。
縦30センチ、横3メートル。成田線経由で東京方面に行商に出た女性たちが、
重い荷物を下ろした荷物台だ一息つきながら休んだ。


  ⑥ 今のも残っているカラス部隊の休憩所。

               (出典⑤⑥・行商人用荷物台より抜粋) 

             

       これ ↓ を見ればすべてがわかる
                   行商のおばちゃんクリック動画
                                千葉のおばちゃん&当時の毎日ニュース2本立。

 

  5、  現在の成田線周辺、布佐駅


                  布佐駅前


       布佐駅から新木駅方向を見る。鉄道は単線。およそ30分に一本の電車でした。

 


           布佐駅前に立ち並ぶ集合住宅。


          平和台高級住宅地、農地が宅地化されて家が建つ

 

 6、  カラス部隊を最後に見かけたとき
  つい2年ほど前、京成高砂駅車掌区建物横の踏み切を渡った時でした。所用で、駅近辺に出かけたときのこと。
建物の入り口広場で、野菜や切り餅を売っていたおばさんに出会った。
懐かしさのあまりお餅を5つ買い求めた。
カラス部隊の行商は、平成25年に廃止とあり、風呂敷を背負った群れは見られない。
 カラス部隊の名残であったかもしれない。

 7、書き終えて感じた事

  書き終えて感じたことは、戦後の日本を切り開いてきたのは♀・女性である!!と言っても過言ではない。すべての画像に映し出されていたのは、たくましい・生きる姿の女性の顔でした
    ”背中に50kg世の荷物を背負い、両手で運ぶ姿、
     まさにニッポンの母ちゃん
でした。
 
  昭和を振り返るとき、このような底辺にうごめいた多くの女性がいたことを決して忘れてはならない。今こうして物はあふれ、贅沢三昧、平和ボケし怠惰に流れ過ぎている現在の世の中に、どう立ち向かっていけばよいのか迷路にハマったような気がしてならない。
 温故知新、古き時代から、さわやかな緑の芽を見たような思いに駆られ、身を引き締めながら少ない人生を歩んでいきたい。
  お世話になりました関係向きのHPさん、有難うございました。  

 


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12 コメント

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カラス舞台? (自然を尋ねる人)
2016-07-30 11:58:52
こんな姿をカラス部隊と言いますか?
担ぎ屋さんが小20年代沢山おられたと聞いています。
我が地は海から15kmも山似寄った山越えた集落
鞆という漁師まちから魚を背負って毎日
妙齢のお年寄り、多分60歳前後の婆様が
担ぎ屋さんとしと来られていたのだと思います。
返信する
カラス部隊 ()
2016-07-30 15:05:36
こんにちは。
こんな時代がありましたね。懐かしく拝見しております。
昭和25年と言えば昔々。私が目黒に居た時も訪ねて来てくれましたから、
カラス部隊の名残りであったかもしれません。
季節季節の野菜や、草もちの美味しかった事を思い出しました。

色々なブログがありますが、縄文人さんのブログほど中身の濃いものは無いようです。
今日もお勉強をさせて頂きました。有難うございます。
返信する
思い出しました (どんこ)
2016-07-30 18:13:28
終戦後、私たちの所へも
新設された市営バスを使って
“買い出し”のおばさんたちがグループで
やってきていましたね。
野菜、さつまいもなどの他に闇米も仕入れていました。
時々摘発されて、検挙されることもあり
あるおばさんはいつも「えすか、えすか」(怖い、怖い)が
口癖でした。私たちはそのおばさんを「えすか、えすかどん」とあだ名を付けていました。
今思うと悪いことをしたなあと思っています。
返信する
そちらでも・・・ (momomama)
2016-07-30 20:13:26
こんばんは。
・・・あったんですね~ しかも長いこと・・・

私が高校に入った年、昭和36年 わが町に鹿児島本線の
引き込み線があり4か月間通学しました。
その後配線となったんですが
いつもリンク先のようなおばさんたち 見かけました。
主に芦屋の魚貝類をもっていってたから
少し違うかもしれないけど・・
懐かしいですね。
まだ宅配便とかなかったですもんね。
返信する
自然を訪ねる人さん (縄文人)
2016-07-31 06:02:27


担ぎ屋さんも、交通手段の発達でなくなりました。
地方地方によって異なりますが、山間地域は峠越え、これにはいろいろの手段があったようです。

いつの時代でも女性は強し!!
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紅さん (縄文人)
2016-07-31 06:11:30


内容についてお褒めの言葉有難うございます。
温故知新、懐かしさのあまり少々深入りしてしまいました。
女性は強し、あの荷物が50kgと聞きますと、ただただすごいと感心するだけです。
強力の人は、1日2回も往復したと・・・・・・・、強いです。

古いものは消えて新しい手段(宅配便)などが発達、
古いものが時代を作り現代に受け継がれ時代が波打つ。
昭和は遠くなりにけり。
返信する
どんこさん (縄文人)
2016-07-31 06:25:17


都会は物資の消費地、田舎は農産物の供給基地。
どんこさんがおっしゃるように、
衣類を持って「これと交換してください」コメや麦が手に入るとニコニコシて帰って行った。食料は命をつなぐ手段。
どのような交通を利用してはせ参じたのか、この辺の具体的な内容は、幼少期でよく分からない。
確かに食べること、これに人間がうごめいたことは確かでした。
そんなこんなを考えるとき、今は落ち着き超平和に流れています。
時代の反省と、平和すぎる日本の教訓とを、かみしめなければいけないのであろうか、あれこれ思いを巡らせました。
返信する
momomamaさん (縄文人)
2016-07-31 06:34:04


この記事を編集するにじゃ感がかかりました。
あっちの記事、こっちの記事などなどつなぎ合わせてHPから作成しました。
編集中、どの画像からも浮き上がってきたのは女性でした。
昭和の時代を作り上げたのは㊛・女性と言っても過言ではありません。

どんこさんのところでも書きましたが、現在はあまりにも平和ボケして、怠惰に打ち流されているようでなりません。
返信する
おはようございます! (とんちゃん)
2016-07-31 07:27:12
背中に荷物を背負った女性!
縄文人さんまた素敵なレポートが出来ましたね!
勉強になりました。
うろ覚えですが、巨人の長島選手が母を語っていたのに、野菜を背負って行商されていたような事を話されていました。
私は社会人になって間もない頃、島根県の大根島から花木の苗木を背負って行商に来られていたお年よりの姿が印象に残っています。
毎度買って帰り、実家の庭先に植えた思い出があります。
返信する
トンちゃん (縄文人)
2016-07-31 18:02:36


昔懐かしい言葉が出てきますと、声に踊らされてしまいます。
レポート作成しました。
こう見てきましたら戦後から始まって、昭和30年代は女・女性が築いて来たと言っても過言では有りません。

そうですか、長嶋選手は佐倉、親の背中を見て育てたのでしょう。長島家が、カラス部隊全く知りませんでした。

昔を紐解いて見ると行商と言う方が多かった。
我が家は、行商の方が荷物を置かして下さい。又翌日きますと言って置き場を頼まれた。旅館や家まで持ち帰るのに大変だったのでしょう。
昭和20年代後半でした。
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