東京大空襲と葛飾 区の公募者(参加者)のお手伝い
【かつしか探検団、ボランティヤ】
大正末期に建てられた山本亭は、和洋折衷の建造物です。
合資会社山本工場(カメラ部品)の創立者、故山本栄之助氏の住居として建てられた。
大正15年から昭和5年までに増改築を重ねました。洋風建築の佇まいを残す貴重な
建築として、葛飾区が登録有形文化財に指定。
昭和63年に買い取り、平成3年4月から一般公開されています。
この中に今でも残る、母屋から
階段続きのコンクリート製”防空壕”が保存されている。
非公開物件ですが、この日に限って区民公募者の見学が許された。
50名の参加者(抽選)の方々を案内説明(葛飾区探検団員として)をした。
A 山本亭
B 山本亭入り口門
C 玄関口 多くの見学者が訪れていた。
D 母屋2階の佇まい
E 山本亭の屋敷を通り抜けて寅さん会館へ
F 防空壕後、地上への脱失口
G 上記Fに同じ
H 母屋からの防空壕に通じる階段屋根と防空壕からの脱出口
I 母屋からの防空壕へ下りる階段
J 内部のコンクリート中に組み込まれた金庫、床は板張り
K 大正期には珍しい換気扇が設置されている。
L 周囲はコンクリートの上に熱い布が張り付けられていましたが、
傷みが激しく破れていた。
M 母屋の階段と防空壕(地下室)の間取り。6畳2間
O 防空壕(地下室)の見取り図
← HPからお借りしました。
縄文人と防空壕
終戦の年が、尋常小学校2年生でした。
したがって少々終戦のゴタゴタは記憶に残っています。我が家にも防空壕がありました。
父が亡くなって間がないので、どなたが掘ったのか記憶にない。
今思えば粗末なもので4~5人入壕できた。
穴を掘りその上に材木を渡し、その上を土で覆った。1~2回入った?か。
戦後は、野菜入れに使われたが、いつの間にか無くなっていた。
昭和天皇の初孫の東久邇信彦様が防空壕の中でお生まれになったという話を叔母たちから聞きました。
その続きは、「貴女は同じ日に畳の上で元気に産声を上げた」というものなのです。
生まれる1か月前に父は戦死していたのですが・・・
そのようなことを思い出させてくれる記事でした。
夫も門先に掘った防空壕に何度も入ったと話してくれました。
もうそのようなことはあってはなりませんね!
防空壕のイメージは もっと暗いものでしたが
こんな立派な・・・貴重な見学会でしたね。
3月10日 姪の長女の18歳の誕生日でした。
上のとんちゃんさんと同じ日ですね。
選挙権ができたのですが 分かってるのかな~
覗いたことはありませんでした。
いろんな歴史があるのですね。
貴重な公開画像を見せていただきありがとうございました。
こういう機会でないと遠方に住んでいる者は
見られませんからね。
今歴史年表作成中です。
このようなものが残っていたらと思いますが
人口が違いますから当地は防空壕なんてなかったと思います。
ただ明りが外へ漏れないように木の雨戸が残っています。
生まれる者、死するもの、
東京大空襲、3,11東北大震災、
それはそれは計り知れない、人間の世界では想像もつかないことばかりでした。
やってくるだろう!?学者さんたちが唱える巨大直下型大地震
もうたくさんです。
こればかりは、予想だて出来ません。
人にはそれぞれ歴史があり、
私の孫娘も3,8で今年学卒就職です。
そんなことから、あなたの生まれた年は、阪神大震災の年で大変な地震と火災があったと、ことあるごとに伝えています。
ドンこさんは、柴又には何回かお越しになられてそれなりに詳しいかと思います。
防空壕は非公開なので1年1回の公開です。
50人の参加者がありましたが、5班に分けて案内しました。参加者の話を後で聞きましたら好評のようでした。
3月10日の東京大空襲では、84歳になる母が当時女学生で、命からがら逃げ回ったと聞きました。
時は移り、6年前の3月11日の東日本大震災では仙台に住んでいる山女の両親が被災。
それぞれの思いがこもった、心に刻む日が続いていて、世界の平和と被災地の復興を願うばかりです。
山本亭に防空壕があるとは知りませんでした。
相変わらず、神出鬼没ですね。
お早うございます。
(12日・小金井、森林ウオーク)行ってきました。
28名、男6人でした。
府中に住んだことが有りますが、こんな所にこんな森林らしき公園が・・・・・・・・ビックリしました。
≫相変わらず、神出鬼没ですね。
ハイハイ、探検隊ですからどこへでも出没します。