北小岩・甲和亭
甲和亭は、江戸川区北小岩にある江戸川区のお茶室です。
テニスコートや滑り台など遊具のある小岩公園の一角にあります。
甲和亭の門脇には、大正5年からおよそ1年間この北小岩の地に住んでいた詩人北原白秋
の歌碑も置かれています。
石碑の表面には、「夏浅み 朝草刈りの 童らが 素足にからむ 犬胡麻の花」という
白秋のの歌が刻まれています。
白秋は、北小岩の乾草商富田家の離を借り「紫烟草舎( 市川市の里見公園に保存されていま
す)」と名付け住んでいた白秋の歌に、のどかな江戸川沿いの田園風景を見ることがでる
ような歌です。
甲和亭の玄関
外は「小岩まつり」で甲和亭も一般開放
周辺の植え込み
落ち着いた雰囲気
石灯篭
入口の萩
北原白秋の歌碑
(「夏浅み 朝草刈りの 童らが・・・」を読みて。フト~田舎時代の吾を感じた。
「アサッパカ」と言って籠を背負い、野山に牛の草刈りに行き、草を刈って帰った。
ここでは素足と在りますが・・・当時は昭和中ごろでしたから藁草履でした。
通学前の朝の仕事でした。昭和は遠くなりにけり~~~)
玄関前のササ道
付 録
白秋は、「この道」「ペチカ」「カラタチの花」「城ヶ島の雨」等々
数々の優れた童謡・詩歌や短歌を世に送り出しています。
その遍歴の中で結婚離婚と何回かを繰り返し、暮らしにおいても極貧の生活でした。
紫烟草舎の庵【葛飾郡小岩村小岩田の三谷という(現在の江戸川区北小岩町八幡神社で】
『雀の生活』『雀の卵』著わしています。
北小岩町八幡神社
ブログ仲間の「ドンこさん」の掲載から借用(熊本)
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福岡県 柳川・・・ 何度も行きました。
そちらは寒そうですね、 縄文人さん 風邪をひかれませんように・・・
今晩は、モカさんも故郷は熊本で下ですね!!
故翌ふるさと同期会を行い、裏の影から見入させてもらっています。
北原白秋、それではお友達のようなものですね!!
友が本を出したり、同県人では…。
今晩は
北原白秋は此処小岩に住んでいる時は貧乏所帯でした。
此処甲和亭位は、「夏あさの・・・・・」歌碑があるだけで住まいは神社近くの家に間借りしていたようです。
北原白秋は小岩に住んでいたのですか。
どんこさんと同郷ですから 柳川の生家は訪れたことがあります。
高校の同級生が 北原さんとなり 白秋に関する本を書いています。
2冊ほど読みました。
その方が住んでおられた離れですか・・・
今の子は同様とかあまり歌わないのです
学校の音楽の時間はどうなのかな
お早うございます。
北原白秋も此処に住んでいる頃は、ずいぶんと貧乏で苦労したようです。
しかし功成って今ではのちにあの有名な北原白秋ですから・・・…。
好きこそものの上手なり!!
お早うございます。
≫≫≫子供時代から、すでに”働きもん”だったのですね。
父が若くして亡くなり、
「祖母・母・子供(兄・姉・私は一歳)の母子家庭となった。
そんな事とて子供の時分から畑に出て・・・・・
公演の一角にある甲和亭。
風情がありますね。
茶室になっているのはイイです。。。(^∇^)
こういうところで、一服頂くと心が落ち着きそうです。
北原白秋もこの地に住んでいたのですね。
素敵な作品を残してますね。
今回も小粋な一隅をご紹介していただきました。
東京は多方面にわたり、洒落たものがいろいろありますね。
北原白秋の住処もあったのでしたか。
ところで縄文人様の秩父での子供時代から、すでに”働きもん”だったのですね。
そうでした、白秋は熊本が生家背した。
≫≫≫実家は福岡県柳川市、せいかは復元され解放されています。
リンクさせても有難うございます。ございます。
戦後でしたから何もなく、本当にいまから思えば貧しい小学校の時代でした。
運動靴などありませんでした。
昭和の中頃で下から戦後です、何もない時代でした。
学校の鞄は、軍の払い下げ、雑納でした。
雨が降ると、履くものが無くて、はだしで行き、学校の池で足を洗って教室に入ることが有りました、貧しい時代でした。
学校も農繁期は休みになり、家の手伝いをしました。
”英雄色を好む”でしょうか・・・。
白秋の母の実家はお隣り熊本県玉名郡南関村(現・南関町)にあり、見にいったことがあります。
実家は福岡県柳川市、せいかは復元され解放されています。
私のブログでも何回か紹介したことがあります。
縄文人さんはわらじでしたか。私は藁ぞうりでした。
籠を背負い、野山に牛の草刈りに行き、草を刈って帰ったーーー、農作業用の牛を買っておられたようですね。家のお手伝いは当たり前の時代---、大人の仕事も多岐にわたっていたのでしょう。
北原白秋三の名前を知らない方はおられない、有名な方にまつわる場所が保存されて良かったです。
母は、八十八歳の生涯を遂げた。
農家の三人姉妹の長女として家を継ぎ、婿養子を迎え入れた。
しかし母が三十五歳の時に、夫が病で他界した。残されたのは「祖母・母・子供(兄・姉・私は一歳)の母子家庭となった。
家族ともども苦労しました・・・・・。
私の見て来た母の半生は、只働くのみで地面に這い蹲ってでも、朝は暗い内から夜遅くまで働いた。
吾、今は歳重ね平々凡々と暮らしています。当時は藁草履、下駄が一人前の掃き物でした。
姉のように親しくして頂いた小岩の従姉と散歩したかったと従姉を偲びました。
「籠を背負い、野山に牛の草刈りに行き、・・・」↑
遠い昔がよみがえって参りました。