小岩市川関所跡の対岸(市川市)に
矢切の渡し下流、2kmほどに位置します
市川関所と呼ばれることもあったが、多くの場合は
「小岩・市川関所」と記されていた。
幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、
市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、役人を補佐した。
黄色丸、小岩市川関所跡 赤丸左小岩関所跡、右市川関所跡
江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていた。
奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する
公の使が太日川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。
また、室町時代には、市川を旅した連歌氏の宗長が、その時の紀行文『東路の津登』のなかで、
市川に渡(わたり)があったことを記しており、古くからここに人々が集い、
川を渡っていたことがわかる。
〔上の看板概略〕
左下が小岩市川関所跡、 中右が市川側
柵が設けられているのが分かります。
関所あとの向こうにノッポのマンションと建設中の現場
この辺りはまだまだ開発が進むことでしょう・・
数年前に入谷の朝顔市に行って
ものすごい人出に驚きました
若いファミリーも多くて
やはり、季節の風物詩。。みなさん大事に思ってますね
入谷の朝顔市の朝顔はほとんど埼玉の草加・越谷の
朝顔なんですよ(*^_^*)
私の村は昔は備中と備後の境でした。
国堺石の話した月天、そのエピソード
番所が境界から300m程離れていたため
送り迎えを殿様通行の度に行っていたこと
や明治時代の話をしました。
明治は遠くに行っている気がしました。
≫泥んこで洗濯が大変だったようです。。。(^_^;)
おめでとう御座います。
レーサーには、思いも寄らない試練の道が有るのでしょう。
優勝の御旗。
関所跡、今こう言われて開発の進む姿をありありと眺めています。
朝顔市、入谷、凄く混んでいるということを、何時も行く友に聞きました。
江戸川区にもたくさんの農家が有り、此処から行くのかと思っていましたが、埼玉の草加・越谷のの朝顔なんですか。
勉強になりました。
草加・越谷のの朝顔と聴きびっくり!!
何時もあちこちへの講演、そしてラジオ出演、新聞記事などで話題の自然さんお疲れさんでした。
自然さんは
ギャグを交えたり、色々土地土地の特色を織り交ぜて講演なさるようですから大人気であったことでしょう。
砂止めサミットを期待しています。
小さな川なら 板を渡すだけ から始まって 石橋もできるかで
大きな川では・・・
関所とマンションの組み合わせが 何とも面白いですね。。
今日は蒸し暑かったけど 明日はもっと気温が上がりそうです。。
ここは台風直撃は免れたようです・・・・
upしてみましたら、後ろにマンションだらけ。
土手のすぐ下ですから開発が遅れていたようです。
台風が3つも来ている当たり年。
梅雨の雨が多いのに、これに輪を掛けて台風、反れて良かったです。
わざわざでなと、一般の旅人は行きませんよね。
存在すら入りませんでした。
検索して少しは理解を深めることが出来ました。
きっかけを与えてくださって
ありがとうございました。
よく地方史を研究される方は、本を出しても限定的でお金にならないといいます。
しかし当地の人は、そこに歴史的なものが有ると訪ねて、そのような史跡が有るとハマッテみたいのが常です。
佐倉街道を歩いたことが有るので、ほんの僅か浸かって見ました。
何とも時代の流れを感じさせられます。
ヒマワリの記事も印象深かったです。長雨でヒマワリも
どちらを向いたものか、さぞかし悩んだことでしょう。
豆好きの自分にとっては隠元の収穫も立派なものでした。隣を覗くと切りがないですね。
このような内容構成はblog向きでは有りません。
地名も内容も、地方の人にはチンプンカンプン。
しかし地元の人にとっては場所に行き、当時の歴史を学んでみたい心境に駆られます。
此処から上流5KMくらいの場所に、金町関所も有りました。
これは水戸街道のお目付け役。
天候も昨日、今日と晴れました。
明日はどうか晴れますように・・・日光方面の旅にいきます。