葛西城・(青砥城)
環状7号線工事中に、陶磁器、漆器等を発見。
東京下町に眠る戦国の葛西城 (遺跡)看板・標石が残るのみ。
築城者と築城時期は不明だが、秩父平氏の一族、葛西氏の城館といわれる。
戦国期は関東管領上杉氏の属城とされていた。
二回の「国府台合戦」で大きな役割を果たした葛西城。しかし葛西城は北条討伐で落城し、
その後葛西城は徳川氏の手により鷹狩等の際の宿所として
「青戸御殿」が建てられましたが、
明暦三(1657)年頃に取り壊されています。
俄かに脚光を浴びたのは昭和四十七(1972)年の環状七号線の道路建設に伴う発掘で、戦国期の陶磁器、漆器等が発見され、発掘が終るまで大幅に遅れた。
葛西城址のド真中を環状7号線が通り抜けています。
環状7号線が、上司の真ん中を通り抜けている。
城址らしきものは無く公園として整備。
葛西城に纏わる、たわ事
その1
青戸 ⇔ 青砥
地名の類似から、また葛西城を藤綱の居宅跡と誤り伝えたことから生じたらしく、いまだに混乱があるそうです。付近に住んでいるものとして、どちらかに決めてよ!と思う日々です。
戸は津の転訛で、大昔の船着き場の意味。沿岸に奥戸、松戸、今戸と同じく地形から生じた古い地名である。
その2
発掘で環7開通大幅遅れ
東京都の環状七号線(通称環七)が葛飾区の葛西城が工事中 に発見された。環七は足立区大谷田陸橋先・亀有 までしか開通していなかった。当時とは1969~1970年あたりのこと。
小生もその当時、葛飾区に引っ越してきたが、葛飾区奥戸総合スポーツセンター付近で通行止め、なぜどうしてと思っていた。やっと開通したのが、昭和60年(1985)頃である。葛西城と言うよりは、環状7号線ストップと言う事の方がクローズアップされたのであった。
城址は環状七号線で左右に分離されて 遺構も残っていない。その破壊は残念であるが、この都心では止むを得ないのかも 知れない。発掘調査では多くの貴重な遺構と出土 品が、葛飾区郷土と天文博物館には残されています。
葛西城発掘の当時の様子
その3
矢切り、(里見城合戦の名残)
矢切の地名は、江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川を はさむ矢切と東京都葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている
矢切りの渡しで有名な「矢切」の地名の由来はいくつかあるが、その中のいくつかを御紹介。
いづれも国府台合戦がらみ。
葛西城は、2回目の合戦で国府台城と係わっているようです。
①里見軍、北条軍双方の「矢が切れるまで激しい戦闘だった」
②里見方の「矢が切れて負けた」から矢きり→矢ぎり
③もう「弓矢の必要ない平和な世の中を願って」地元住民が名付けた。
…などなど。
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